メッセージ
<出エジプト記 40章16~19節、33節後半~38節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった。
<出エジプト記 40章38節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。 メッセージ動画公開:10/31 PM 7:00
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・「出エジプト記」の最終章です。主が命じられた幕屋がついに完成します。一つ前の39章の最後には、モーセが完成した幕屋のすべての調度品や衣装を見て、彼らの業を祝福したことが記されています。
『イスラエルの子らは、すべて主がモーセに命じられたとおりに、そのとおりに、すべての奉仕を行った。モーセはすべての仕事を見ると、彼らは、見よ、主が命じられたとおりに行っていた。そこでモーセは彼らを祝福した』(出エ39:42~43)。
神は、その幕屋を設営する日を、日本で言うところの「元旦」、最初の月の一日と定められました(同40:2)。
17節にある『第二年』
とは、イスラエルの民がエジプトを出てからということですが、幕屋が完成したのは、彼らが神の山シナイ山に到着してからちょうど10ヶ月後のことでした。
1、宣教とは
「出エジプト記」の25~39章まで、15章にもわたって、事細かに幕屋の調度品や祭司の装束の作成に関することが命じられています。正直、うんざりするほどのしつこさです。けれども、このように丹念に命じられているところに、神さまの意図が隠されているように思えます。神さまから、『うなじを固くする民(強情な民)』と呼ばれたイスラエルの民でしたが、この時は、小さな釘の一本にいたるまで、主のことばを忠実に守って幕屋の品々を作ったのです。それは、
39章に10回、40章にも7回出てくる『主がモーセに命じられたとおりである』
ということばに表れています。この幕屋は「あかしの幕屋」とも呼ばれています。イスラエルの民は、最初、こんな何も無いような荒野の真ん中で、幕屋なんてできるわけがないと思ったかもしれません。しかし、彼らが、神みことばに徹底的に従った時、彼らは、その呼び名である「あかしの幕屋」の「あかし」、つまり、「神の御業」の目撃者とされたのです。ある本に次のように書かれていました。
「信仰者の喜びは、あざやかな神の御業を仰ぎ見ることである。それは人知をはるかに超えたことであり、「ただ幻を見ているように思われる」ような事柄である。この神の御業を仰ぎ見ることのない信仰生活ほどつまらないものはない。私たちは、日ごとにそれを仰ぐ者でありたい」。
それ決して簡単なことではないでしょう。信じるということは、常に疑いとの戦いですので。しかし、私たちが神のことばにどこまでも真剣に従って生きようとする時、自分が何をしたか、何ができたかということではなくて、それこそ、あざやかな神の御業を仰ぎ見る者とされるのです。宣教とは、私たちが何かをすることではなくて、私たちが見させていただいた神様の御業を語り継ぐことではないかと思います。
2、柔和と謙遜
さて、モーセとイスラエルの民が幕屋建設のすべての仕事を為し終えたとき、
『そのとき、雲が会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた』(出エ40:34)。
雲と栄光は神の顕現と臨在を象徴するものですが、それで、35節。モーセは会見の天幕に入ることができなかった。それはモーセが主の凄まじい存在感と言うか、顕現と臨在に圧倒されてということだと思うんですが、そこにモーセの人柄のようなものが表れているように思えます。「民数記」12章3節には、モーセについての次のような言及があります。
『モーセという人は、地の上のだれにもまさって柔和であった』(民数12:3)。
前の訳では「謙遜であった」となっていたんですが、柔和というのは、辞書で調べると「やさしく、おだやかなさま。とげとげしい所のない、ものやわらかな態度・様子」とありました。聖書を読むと、本当に様々な性格、人柄の人物が選ばれ、神の御業のために用いられていることがわかりますが、出エジプトという出来事においては、このモーセのような人柄は、何にも代えがたい大切なリーダーとしての条件・資質だったのではないかと思わされます。ただし、一口に謙遜と言っても、何に対しての謙遜、誰に対しての謙遜かということが大切ですよね。最近読んだ向田邦子さんの本に、面白い一文がありました。
「私は「清貧」ということばが嫌いです。それと「謙遜」ということばも好きになれません。-中略- 清貧は、やせがまん。謙遜は、おごりと偽善に見えてならないのです」。
「夜中の薔薇」向田 邦子著
向田さんが言う「謙遜」とは、人に対する、表面的な謙遜ということだと思いますが、福音書で、少し無鉄砲でおっちょこちょいのように描かれているペテロという人がいます。ある時、ガリラヤ湖で、二槽の舟が魚でいっぱいになるという奇跡を目の当たりにした彼は、イエス様の足下にひれ伏し、「主よ、私から離れてください。私は罪深い人間ですから」と言ったんです。この謙遜は、人に対しての謙遜ではなく、神に対しての謙遜です。前回のメッセージで「ヨナ書」のヨナの姿を通して、神に怒るということについてお話ししました。ヨナがそうであったように、神への怒りは、時に、神と正直に向き合う、対峙することにつながります。しかし、その時、決して忘れてはならないのが謙遜でしょう。自分はどうかなぁ、と思わされます。
<結論>
最後に、36~38節をもう一度ご覧いただきたいと思います。
『イスラエルの子らは、旅路にある間、いつも雲が幕屋から上ったときに旅立った。雲が上らないと、上る日まで旅立たなかった。旅路にある間、イスラエルの全家の前には、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があった』(出エ40:36~38)。
「出エジプト記」が35節で終わりではなく、38節をもって終わるということは、大変意義深いことではないでしょうか。それは、主がご自分の民の中に住まわれるだけでなく、自ら先達(せんだつ)となって民を導かれるということを告げているからです。
今の私たちには、幕屋の上の主の雲や、雲の中の火を見ることはできません。しかし、もっと素晴らしいイエス様がおられます。イエス様こそ、私たちの羊飼いであり、私たちにとっての主の雲、雲の中の火なのです。祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:428番、メッセージ後:385番
2021年教会行事
11月3日(水)は祝日のため集会はお休みです。
#53-2788
One comment to this article
mb-senri_web
on 2021年10月30日 at 9:51 PM -
向田邦子さんと言えば、旅行中の飛行機事故で急逝されて、ちょうど今年で40年。
その年に出版された最後のエッセイ集が『夜中の薔薇』だそうです。
そのエッセイ集に収録された「手袋をさがす」(1976年)からの引用であることを、Web管理人より補足させていただきました。
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