2つの時

メッセージ

<ヨハネの福音書 7章1~10節>
メッセージ:信徒:Y

開会聖句

「いいですか。わたしは狼の中に羊を送り出すようにして、あなたがたを遣わします。ですから、蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい。」

<マタイの福音書 10章16節>

メッセージ内容

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メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・ここに立ちますと、皆さんの顔が見えます。落ち着きますと表情がわかりますし、時計も見えて時間がわかります。正確な時間というより、礼拝の始めから終るまでのどの位置にいるのかがわかります。アナログの時計はデジタルに比べ、一目で位置を把握しやすいのがいいところですね。 ヨハネ福音書は、ユダヤ人の祭りを記すことで、イエスさまが公生涯のどのへんにおられるのかを示しています。特に、年に1度の過越の祭が3回記されているのがポイントです。すでに2回の過越の祭(2、5章)があり、過越の約半年後にある「仮庵の祭り」が出てきましたから、公生涯が始まって最短で一年半、ということになります。他に、珍しい人との会話が所々で紹介されているのも、ヨハネの特徴です。今日はイエスさまの兄弟たちとの会話です。この場面のイエスさまの姿から、信仰者の生き方として教えられた2つのことを分かち合いたいと思います。

<本論>
Ⅰ.イエスさまは家族のことを神に委ねておられた

他の福音書にもイエスさまの家族は出てきます。近所の人に「お兄さんおかしいですよ」とか言われて、家族総出でイエスさまに話しに来たという話なのですが、ここはそれと違って、兄弟間の会話で、彼らの話題は、もうすぐ始まる「仮庵の祭り」です。兄弟たちはイエスさまに「その祭りに上るように」と勧めます。

3節「ここを去ってユダヤに行きなさい。そうすれば、弟子たちもあなたがしている働きを見ることができます。」

しかしイエスさまは

6節「わたしの時はまだ来ていません。しかし、あなたがたの時はいつでも用意が出来ています。」
8節「あなたがたは祭りに上っていきなさい。わたしはこの祭りに上っていきません。わたしの時はまだ、満ちていないのです。」

と繰り返されます。

9節「こう言って、イエスはガリラヤにとどまられた。」兄弟の助言は無視されたのです。

両者の間はあまりいい空気ではないようです。兄弟たちは、

4節「自分で公の場に出ることを願いながら、隠れて事を行う人はいません。このようなことを行うなら、自分を世に示しなさい。」

と、まるでイエスさまがこそこそと逃げ回っている卑怯者のような言い方をしていますし、イエスさまも

「…あなたがたの時はいつでも用意ができています。世はあなたがたを憎むことができないが、わたしのことは…」

と、「あなたとわたし」の距離をとても感じさせる言い方です。ここを読んで思い出だしたのが、2章の母との会話です。カナの披露宴で、ぶどう酒がなくなり、母がイエスさまに助けを求めたとき、

「あなたはわたしと何の関係がありますか。わたしの時はまだ来ていません。」(2:4)

と言われました。イエスさまと母、イエスさまと兄弟たちのこの距離感。 それは、この世にあって神に召された者と、そうでない者の間にどうしても生じる壁のようなものだと思います。長男のイエスさまは父の死後、ずっと大黒柱的存在だったでしょうから、イエスさまが公生涯に入られたという変化に、家族が戸惑ったのも無理のないことです。捨てられたようにさえ感じたかもしれません。このような気持ちの隔たりや行き違いを少なからず経験した方も多いのではないかと思います。

些細なことですが、私が教会に行くことを両親は嫌がりました。その気持ちを知りながら、行くことは気持ちのいいことではなかったです。日曜の朝に家族を置いて、1人教会に行くことも葛藤がありました。寂しい思いをさせているからです。親戚や友人、地域の関わりの中では、付き合いの悪い人に思われたりしてるかもしれません。このわたしの態度は、「隣人を愛しなさい」という教えと矛盾してるかなと、クリスチャンならではの悩みを私たちは悩みます。 ヨハネはもう一カ所、イエスさまと母とのことを書いています。それは? 十字架につけられたイエスさまが、母をヨハネに託す場面(19:26~27)です。家族に正しい理解、評価はされませんでしたが、イエスさまはいつも家族のことを心にかけておられたのだと思いました。

「あなたがたの思い煩いをいっさい神にゆだねなさい。神があなたがたのことを心配してくださいます。」(Ⅰペテ5:7)

この世で生きる時、神に一足先に召された私たちは思い煩うことが多くあります。しかし、私たちのことを心配してくださる神さまは、私たちが愛する人たちのことも心配してくださるはずです。祈り委ねたいと思います。

Ⅱ.イエスさまは「わたしの時」を見据えて、「わたしの時」を判断した

次は6節と8節の「わたしの時」ということばを考えてみましょう。先ほど、母にも「わたしの時は来ていません」と同じことばを言われたことをお話しました。この「~の時」は、これからヨハネに多く出てくることばで、「わたしの時」の他に、

「イエスの時」(7:30)
「人の子が栄光を受ける時」(12:23)
「ご自分の時」(13:1)

と8回ほど出てきます。それは、イエスさまの最後、十字架と復活に関する時をさします。ところが、この6と8節の「時」だけが他と違うギリシャ語が使われて、岩波訳では「時機」と訳されていました。タイミング、「今でしょ!」という意味です。つまり、ここの「わたしの時」とはズバリ「祭りに上る時」です。 10節以降に、祭りに行かないと言っておられたイエスさまが、表立ってではなく内密に祭りに行かれたことが書かれています。イエスさま心変わりされたのでしょうか? 否、イエスさまははじめから祭りに行かれるつもりでした。しかし、1節を読むと、エルサレムではイエスさま殺害計画が練られています。祭りの始まる頃に行くと、手ぐすねひいて待っているユダヤ人たちにすぐに捕まるでしょう。イエスさまにはまだやるべきことがありましたから、捕まるわけにはいきません。だから、「わたしの時は来ていない」、反対に兄弟たちには「いつでもどうぞ」と言われたのです。イエスさまは、ご自分の最終目的である十字架という「わたしの時」を見据えながら、慎重にエルサレムに行く「わたしの時」タイミングを考えておられたのだと思います。

今日の開会聖句は

「いいですか。わたしは狼の中に…。蛇のように賢く、鳩のように素直でありなさい」

です。私たちは色々なことを「信仰によって」決断しようと思っているのですが、このことばには、何か状況をあまり考慮せず、熱意で押し切るような感じを持つことがあるのですが、そうではない、狼の中に生きているのですから、蛇のように賢く、よく状況を見ることが必要だということを教えられます。イエスさまは、兄弟のもっともらしい助言に振り回されず、十字架の時を視野に入れ、祭りに行っても安全な時を判断されたのです。
私たちにも「2つの時」があります。1つはイエスさまにお会いする「わたしの時」、もう1つは日常という「わたしの時」です。この2つをバランスよく意識することがとても大切だと思います。将来の「時」に傾くと、落ち着きのない生き方になり、この世界で神の価値観を実現するというイエスさまの教えがおろそかになってしまいますし、今の目の前の「時」に傾けば、「今さえ楽しければいい」、与えられた毎日が神さまとの信頼関係をちっとも築けないもったいない時間になってしまいます。2つの時を意識してバランスよく生きるのが、神に召された信仰者の生き方だと思います。

<終りに>

イエスさまの行動を2つのことから見ました。家族やこの世との関わりでは、煩いがつきないが、祈って委ねよう。2つの時を意識して生きようということ。蛇のように賢くしたたかに、鳩のように素直に大胆に神に信頼して。

メッセージ内容のダウンロード(PDF93KB)

新聖歌

開会祈祷後:143番、メッセージ後:349番

聖書交読

詩編 78篇 1~16節

2021年教会行事

10月27日(水) オリーブ・いきいき百歳体操

#53-2787

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