神の選びと人間の応答

メッセージ

<出エジプト記 28章1~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

しかし、あなたがたは選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神のものとされた民です。それは、あなたがたを闇の中から、ご自分の驚くべき光の中に召してくださった方の栄誉を、あなたがたが告げ知らせるためです。

<ペテロの手紙 第一 2章9節>

メッセージ内容

Youtube動画



メッセージ動画公開:10/10 PM 5:53
  


メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・最初の1節に出てくるアロンというのは、モーセの兄で、モーセの助け手、預言者とも呼ばれています(出エジプト4:10~17、7:1)。神はモーセに、アロンとその一族とを祭司としてわたしに仕えさせるように。そして、今朝のテキストにありましたように、

『あなたの兄弟アロンのために、栄光と美を表す聖なる装束を作れ』(同28:2)

と、お命じになられました。

<本論>
1、聖なる装束

その『栄光と美を表す聖なる装束』の想像図が、皆さんにお配りしたコピーです。私は、以前、教会の葬儀の際に、ある斎場で、これと似た服を着た人を見たことがあります。一瞬、ドキッとしたのですが、それは、どうやら「天理教」の導師と言いますか、教職の方のようでした。もしかすると、このイスラエルの大祭司の装束を参考にして作られたのかもしれません。今日の箇所には、『エポデ(腰に巻きつけるもの)』『肩当て(ズボン釣りのようなもの)』『縞めのう(十二部族の名が刻まれている)』などが出てきます。さらに、先程は読みませんでしたが、28章後半には、『さばきの胸当て』『ウリムとトンミム(その形状や材質は不明)』『エポデの下に着る青服』『(純金の札をつけた)かぶり物』『市松模様の長服』などについて詳しく説明されています。その一つ一つに意味があり、それらはまさに、神の栄光と美を表す聖なる装束であったわけです。大祭司は、それらの聖なる装束を身に着け、幕屋の中で様々な宗教的な儀式を行いましたが、その任務と使命は、大きく分けて三つありました。

  1. 聖所おける奉仕:(例)祭壇の上で香りの高い香をたく(出エ30:7,8)。
  2. イスラエルの民に律法を教え、上級裁判所としての役割を果たす:(例)争い事に判決のことばを告げる(申命17:8,9)。
  3. ウリムとトンミムによって神の御旨を占う:(例)イスラエルの民のためのさばきを担う(出エ28:30)。

これら三つを一言で言えば、神と人間との間の「仲保者(仲立ちをする者)」としての働きと言えます。つまり、大祭司の務めは、イスラエルの民が神の民として歩むため、神との交わりを保ち続けることを目的として行われていたのです。しかし、長い年月が経過していく間に、次第に、その目的は忘れ去られ、それらの儀式は形骸化してゆきます。皆さんもよくご存じのように、福音書で描かれているイエス様の時代の大祭司というのは、神とイスラエルとの間の仲保者ではなく、民衆を支配し、抑圧する権力者のようでした。イエス様は、「マタイ」23章で、当時の律法学者やパリサイ人、そして祭司も同じだったと思いますが、彼らは人に良く見られようと、聖句を入れる小箱を大きくしたり、衣の房を長くしたりするのだ、と非難しておられます。また、パウロも、「使徒の働き」23章で、彼を尋問しようとした大祭司アナニヤに向かって、『白く塗った壁よ』と呼びました。それは、イエス様も言われたように、「外側は美しく見えても、内側は汚いもので一杯だ」ということですね。そこには、立派な外見はあっても、大切な中身は全く失われていたのです。

2、祭司の王国

新約聖書に「へブル人への手紙」という書簡がありますが、その手紙の主題の一つは、まことの大祭司となられたキリストです。9章11節から、次のように述べられています。

『しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造物世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました』(へブル9:11~12)。

私たちは、不完全で、言わば実物の影とも言える人間の大祭司ではなく、イエス・キリストというまことの大祭司、神と人との間の真の仲保者となられた方の尊い血によって、造り主である神との関係を回復することができたのです。
そして、今朝、皆さんと覚えたいことがもう一つあります。それは、神はアロンのようなレビ人だけにではなく、イスラエルの民全体に対しても祭司と呼ばれているということなんです。今朝の箇所の少し前の「出エジプト」19章3節からご覧ください。モーセに導かれたイスラエルの民がシナイの荒野に入り、そこで宿営した時に下った主のことばです。
『モーセが神のみもとに上って行くと、主が山から彼を呼んで言われた。「あなたは、こうヤコブの家に言い、イスラエルの子らに告げよ。『あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたを鷲の翼に乗せて、わたしのもとに連れて来たことを見た。今、もしあなたがたが確かにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはあらゆる民族の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたは、わたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。』これが、イスラエルの子らにあなたが語るべきことばである』(出エジプト19:3~6)。
神はイスラエルを、祭司の王国、聖なる国民と呼ばれました。それは、彼らが、あらゆる民族のための仲保者、神と人との仲立ちをする者として選ばれたということですね。それはまさに、神の一方的な選びであったと言えます。

<結論>

私は神学生時代に、あるイスラエルの方から興味深い話を伺ったことがあります。それは、当時の神学校に、「メシアニックジュー」と呼ばれる、ユダヤ人クリスチャン(正確には、ユダヤ人(教徒)でありながらイエス様をメシヤと信じる人)を招いて講演会(特別講義)を行った時に聞いた話です。確か、質疑応答の中での話だったと思うんですが、私たちには、イスラエル、ユダヤ人というと、あのエルサレムの「嘆きの壁」の前で熱心に祈りをささげる超正統派と呼ばれるユダヤ教徒のイメージがあるかもしれませんが、実際には、そうではないユダヤ人、つまり、余り宗教的に熱心ではなく、世俗的な生き方をしているユダヤ人もたくさんいます。というか、世界的に見れば、そのようなユダヤ人の方が圧倒的に多いのではないかと思います。どんなやり取りの中での発言だったのかは忘れましたが、そのメシアニックジューの方はポロっと次のように言われたんです。「ユダヤ人の中には、自分が選ばれた民族で、神から特別な使命を担わされているということに対して、もっと言えば、周りの異邦人の人たちからそのように見られることに対して、重荷だなぁとか、自ら望んだわけでもないのに、と思っている人たちも大勢いると思います」。これは、ユダヤ人という定義そのものにも係わることかもしれませんが、何か多くのユダヤ人の心の底にある本音を聞かされたようにも感じました。つまり、神の選びは、彼らの中のある人たちにとっては大きな喜びであり、誇りでもあるんですが、別のある人たちにとっては重荷であり、言わば有難迷惑のようなものでもあるということですね。
今朝の開会聖句、「Ⅰペテロ」2章9節のみことばは、もちろんユダヤ人に対してではなく、我々クリスチャンに対して語られたことばです。私たちはユダヤ人から見れば異邦人なんですが、やっぱり、自分は神に選ばれてクリスチャンになったと信じています。聖書には、確かにそう書いてありますよね。ただ、その一方で、私たちは、自らの意思で、イエス様をメシヤと信じ、従おうと決心した者でもあります。そのことも、聖書に書かれています。もちろん、順序は神の選びの方が先なんですが、その関係と言うか、両者のバランスや内容については、それこそ神学的な大問題として長年に渡って議論されてきたことなんです。そのどちらを重視するかによって、私たちの信仰のあり方も変わってくるんですが、「福音書」を読んでいると、イエス様は、ご自身と出会った人たちに、必ず信仰の応答を求めておられる、ということに気づかされます。あの五千人のパンの奇跡もそうですし、シロアムの池で目を開けてもらった生まれつき目の見えない人の奇跡もそうです。やっぱり、私は、当たり前のことなんですが、神に選ばれた者、愛されている者として、自ら応答することの大切さということを、今朝のみことばを通して改めて思わされました。

メッセージ内容のダウンロード(PDF110KB)

新聖歌

開会祈祷後:191番、メッセージ後:222番

聖書交読

詩編76篇 1~12節

2021年教会行事

10月13日(水)オリーブ いきいき百歳体操(10時~11時)

#53-2785

One comment to this article

  1. mb-senri_web

    on 2021年10月9日 at 8:21 PM -

    『栄光と美を表す聖なる装束』は、Googleの検索結果のリンクのみ示しています。