神のパン

8月22日(日)までの期間、大阪府に発出されている「蔓延防止等重点措置」に伴って、7月4日(日)より、礼拝を再開しましたが、8月2日(月)から9月30日(木)(9月12日(日)までの期間が延長)までの期間、再び緊急事態宣言の発出に切り替わるため、千里教会では感染状況を考慮し、8月8日(日)から9月26日(日)までの期間、対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。
対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ヨハネの福音書 6章22~33節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。

<マタイの福音書 6章11節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・緊急事態宣言が長引き、退屈しのぎに図書館でDVDを借りて見ています。7年ほど前のNHK朝の連ドラで「ごちそうさん」というドラマです。全部で13巻、1巻で3時間、全部で39時間あって、見応えがあります。時代は明治の終りから昭和。主人公は大変食い意地の張った女性です。子供の時から美味しいものに目がなく、美味しいものは絶対分けてくれませんし、新鮮な卵で作ったオムレツは美味しいと聞くと、小学校の鶏小屋に盗みに入り、鶏につつかれながらも手に入れるほど、食へのこだわりの強い子です。家は町の洋食屋さんで、年頃になるまで、出されたものを食べることだけが、彼女の関心事でしたが、あることから、料理を作る側になり、「ごちそうさん」と言われることに喜びを見い出します。食べる人を思いやり、工夫をこらした料理は、周囲の人々に生きる力を与えました。食べることは、生きること。それはイエスさまとて同じです。イエスさまも食を大切にされましたから、福音書にはイエスさまが人々と食事されたことが多く記されています。さらに、今日のところで、イエスさまはご自分のことを「神のパン」と言われました。その意味を考えてみましょう。

<本論>
Ⅰ.人はパンだけで生きるのではない

今日は「5千人のパンの奇跡」の続きです。前回はちょっと視点をずらして、アンデレという目立たない弟子に注目しましたが、6章の本筋はやはり「パン」です。

「天からのパン」(31節)
「天からのまことのパン」(32)
「神のパン」(33)
「いのちのパン」(35)
「天から下って来た生けるパン」(51)

など、色々な形容詞のついたパンが出てきます。

「5千人のパンの奇跡」の後、満腹した彼らはイエスさまを無理矢理にでも、自分たちの王にしようともくろみました。今週は自民党の総裁選の投開票が行われます。国家のリーダーに必要な条件は、民にビジョンとパンを与えることだそうです。夢のある希望と確かな経済政策と言えるでしょう。聖書の時代も同じでした。先ずは、パンが必要です。ですから、イエスさまの公生涯のはじめ、サタンは40日40夜の断食の後の空腹のイエスさまに、その力を試すように、その方法で王になるように「石をパンに変えたら」と誘いかけたのです。その時、イエスさまはサタンのことばを退けられましたが、このパンの奇跡の場面では、その神の子としての特別な力を用いて、民を満腹させ、民はその気になりました。この人を王にしたら食いはぐれることはないと考えたのでしょう。彼らはイエスさまに、偉大なリーダーであったモーセを重ねました。モーセは40年間、荒野でイスラエルの民を「天からのパン」で養いました。(実際は神さまの働きですが) それを察知したイエスさまは、興奮状態の弟子たちを舟に乗り込ませ、一旦一人で山に退かれ、後で湖の上を歩いて追われました。しかし、大勢の民が翌日、イエスさまを捜してカペナウムにやって来たのです。

その時の会話を見ましょう。

25節「先生、いつここにおいでになったのですか。」

イエスさまはそれには答えず、こう答えられました。

26~27節「…あなたがたが、わたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなってしまう食べ物のためにではなく、いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物のために働きなさい。…」

彼らの本心をズバリ言い当てた厳しいことばです。イエスさまは、お腹を満腹にするパンは大切だと思っておられます。だからこそ、彼らのお腹の空き具合を心配して、奇跡を行われたのです。しかし、先ほどサタンの誘惑の場面では、イエスさまは何と言って、サタンの誘惑を退けたでしょうか。マタイ4:3~4(p5)を読みますと、

「すると、試みる者が近づいて来て言った。『あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。』 イエスは答えられた。『人はパンだけではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」

イエスさまは「人はパンだけで生きるのものではない」と言って、サタンの誘いを拒まれたのです。このパンは、お腹を満たすものだけでなく、心を満たすものに広げて考えることもできます。例えば、仕事、夢、大切な人、生きがい。それらは確かに私たちに力や喜び、満足を与えてくれます。「ごちそうさん」の主人公の生き方がそうです。ただイエスさまは、それらは「なくなってしまう食べ物だ」と言われました。それらは、神さまの祝福の1つ1つでありますが、それだけでは私たちには十分ではなく、それらは一時的というのが、「人はパンだけで生きるのではない。」の意味だと思います。そして、「神の口から出る一つ一つのことばで生きる。」と続きます。「いつまでもなくならない、永遠のいのちに至る食べ物」のことです。「永遠のいのち」はヨハネが度々使っている表現です。この「永遠のいのち」についてもう少し考えてみましょう。

Ⅱ.永遠のいのちを与える神のパンはイエスさま

私たちの聖書は翻訳されたものです。新約ならギリシャ語を翻訳したものですが、どうしてもそのまま訳すことに無理があり、色々工夫がされています。みことばのことを「パン」とか「糧」とか言いますね。この聖書では、開会聖句が

「私たちの日ごとの糧を、今日もお与えてください」

となってますが、「日ごとのパン」「日ごとの食物」という訳もあります。昔はパンは今のように一般の食べ物でなく、高級品でした。だから、「日々のパン」の訳には、庶民の手に届かないイメージのある「パン」を使わず、「糧」としたのだそうです。 「いのち」ということばも、ギリシャ語の「いのち」を表わすには十分ではありません。ギリシャ語には2種類のいのち、「プシュケー」「ゾーエー」があって、ヨハネは使い分けています。「プシュケー」はなくなるいのち。イエスさまが捨てられたのは「プシュケー」です。ゾーエーはなくならないいのち、つまり神に属するいのち、神に由来するいのち、永遠のいのちです。イエスさまは、このなくならない「永遠のいのち」に至る食べ物のために働きなさいと言われました。

民はそのためには何をしたらいいのかと尋ねます。27節以降はその問答です。要約すると、 「わたしがあなたがたに永遠のいのちを与える神のパンです。」「天から下ってきた神のパンであるわたしを信じなさい。」 しかし、人々は文句を言い始め、議論が始まり、多くがイエスさまから去りました。それは、「天から下って」とか「モーセ以上のもの」という発言が、彼らの反感を買ったこともありますが、彼らの関心がこの世のパンだったからです。しかし、神さまはどうしても永遠のいのちに至る「神のパン」を与えたいと考えられた、それはなぜでしょう?それは、永遠のいのちを持たなければ、本当の幸いな生き方ができないからです。罪人である人間と神さまの間にある罪のしきりが、「神さまからのいのち」が私たちに流れ込む妨げになっていたからです。

「ごちそうさん」の漢字をご存じですか。「ご馳走さん」―馬が馳せる、走ると書くのですが、それは、昔はお客さんをもてなすための食材を集めるために、馬で近所を走り回ったことから来るそうです。今のように、冷蔵庫、出前、テイクアウトなどの無い時代、客人をもてなすことは大変だったのでしょう。その大変な労苦への感謝のことばが、「ご馳走さん」です。
もし、人々のお腹を満たすパンのためなら、イエスさまは人間としてこの地上に生まれなくてもよかったのです。天に留まっておられて十分でした。あざけられ、はずかしめられ、捨てられ、裂かれることもなかったのです。しかし、永遠のいのちを与える神のパンとなるために、人となられました。私たちは神さまと共に生きているのです。そのことへの感謝を新たにしましょう。

<むすび>

最後に開会聖句を読みます。

「私たちの日ごとの糧を今日もお与えください。」

主の祈りの1節ですが、ここにいる私たちにとっては、昔ほど切実な祈りではないように思います。私たちの収入は給料、年金というシステムですし、数日間の食料の備蓄はあるでしょう。緊急事態宣言でも、食料品店は開いていました。しかし、私たちを生かす神のパンはそうではありません。イエスさまを信頼し、イエスさまに従っていくために、私たちは神のパンを日々に必要としています。ですから、毎日「日ごとの糧を今日も与えてください」と心から祈りましょう。そして、やはり、お腹のパンに困っている多くの人々のことも、覚えて祈りたいものです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF167KB)

2021年教会行事

週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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