いのちの水

8月22日(日)までの期間、大阪府に発出されている「蔓延防止等重点措置」に伴って、7月4日(日)より、礼拝を再開しましたが、8月2日(月)から9月30日(木)(9月12日(日)までの期間が延長)までの期間、再び緊急事態宣言の発出に切り替わるため、千里教会では感染状況を考慮し、8月8日(日)から9月26日(日)までの期間、対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。
対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<出エジプト記 17章1~7節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。わたしを信じる者は、聖書が言っているとおり、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになります。」

<ヨハネの福音書 7章37節後半~38節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:9/18 PM 23:51

メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。 
 
<序論>  

・「日々のみことば」9月号の後半は「出エジプト記」15~23章です。その直前の14章には、出エジプトの出来事で最も有名な場面が描かれていました。神は、葦の海(紅海?)を二つに分け、イスラエルの民をエジプトの手から救い出されたのです。

<本論>
1、マラ、エリム、そしてシンの荒野へ

葦の海での驚くべき奇跡によって救い出されたイスラエルの民は、まず、「マラ」という地に導かれます。新改訳聖書の下の脚注によると、「マラ」とは「苦い」という意味だそうです。その名の通り、マラの水は苦くて飲めませんでした。それで、イスラエルの民はモーセに文句を言います。

『民はモーセに向かって「われわれは何を飲んだらよいのか」と不平を言った』(出エ15:24)。

荒野で水が無いということは、即、死につながります。山本七平という人は、「旧約の風景」という本の中で「荒野の生活」と題して次のように書いておられました。

「何回かのシナイ行きで、私はあるヒントを得た。「この地は、自然の恵みという発想を絶対にさせない地だな」と。では人は何によって生かされているのか。そこから何か啓示が出てくるのかもしれない。」

マラで、神はモーセに一本の木を示し、その木を投げ入れることよって、苦い水を甘く変えるという奇跡を起こされました。そしてその後、神は彼らを「エリム」というオアシスへと導かれます。エリムとは「大きな木」という意味で、15章27節を見ると、その呼び名の通り、

『そこには、十二の水の泉と七十本のなつめ椰子の木があった』

と記されています。あの預言者エリヤがイゼベルからの脅しに逃げ出し、荒野のエニシダの木の陰で自分の死を願って眠っていた時、主の御使いがパン菓子と水とを用意して「起きて食べなさい。旅の道のりはまだ長いのだから」と励ましたように、この時、神は、今まさに荒野での旅を始めんとしていたイスラエルの民を励まそうとされたのではないでしょうか。「雅歌」に次のような歌があります。

『ああ、人を喜ばせる愛よ。あなたはなんと美しく、麗しいことよ。あなたの背たけはなつめ椰子の木のよう、乳房はその実の房のようだ。私は言った。「なつめ椰子の木に登り、その枝をつかみたい。あなたの乳房はぶどうの房のようであれ。息の香りはりんごのようであれ。あなたの口は最良のぶどう酒のようであれ。」』(雅歌7:6~9a)。

「なつめ椰子」とはヘブル語で「タマル」と言いますが、聖書では最も優美な木とされ、女の子が生まれた時には、名前として好んでつけられたようです(創世記38章)。その果実は、砂糖のように甘く、この葉を編んで敷物やかごなどが作られ、樹皮は縄になり果実の枝は砕いて家畜のエサともなったそうです。荒野に住む人々にとって、それはとても貴重で、役に立つ植物でした。
イスラエルの民は、このエリムでしばしの休息をとった後、「シンの荒野」というところに入ります。少し後の「民数記」20章に「ツィンの荒野」というのが出てきます。とてもまぎらわしいのですが、それとは違う荒野です。恐らく、シナイ半島の南西側に位置していたのではないかと推測されています。そこで、彼らは、またモーセとアロンに向かって文句を言います。「あなたがたは、われわれをこんな荒野に導き出し、飢え死にさせようとしている。ああ、あのエジプトに帰りたい」と。そんな彼らを、神は再び啓示を通してそのいのちを支えてくださいます。天からパン(マナ)を降らせ、うずらを飛んでこさせて、彼らを養ってくださったのです。イスラエルの民は、そんな奇跡、神からの啓示を何度も何度も経験した後、今日のテキストにあった「レフィディム」にやって来るのです。

2、モーセ、岩を打つ

『民はモーセと争い「われわれに飲む水を与えよ」と言った』(出エ17:2a)。

15章にあった「マラ」での出来事の繰り返しのようですが、この時は、より深刻でした。マラには、苦くても水はありましたが、このレフィディムには、その苦い水さえ無かったのです。
イスラエルの民の怒りは凄まじく、4節後半を見ると、モーセは神に、彼らが自分を石で打ち殺そうとしている、と訴えています。
そんなモーセに、神は次のようにお命じになります。

『主はモーセに言われた。「民の前を通り、イスラエルの長老たちを何人か連れて、あなたがナイル川を打ったあの杖を手に取り、そして行け。さあ、わたしはそこ、ホレブの岩の上で、あなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。岩から水が出て、民はそれを飲む。」』(同17:5,6a)。

この杖とは、ここではナイル川を打ったあの杖と言われていますが、さらに遡れば、モーセが神の召命に応える決断をしてミディアンの地からエジプトに帰って来た時に持っていた杖のことなんです。それは、「出エジプト」の4章20節に書かれています。

『そこでモーセは妻や息子たちを連れ、彼らをろばに乗せて、エジプトの地へ帰って行った。モーセは神の杖を手に取った』(同4:20)。

「神の杖」とは、神がモーセと共にいてくださるという約束のしるしでした。モーセは、ただ、この約束だけを頼りに、妻と息子たちを連れ、苦難と危険とが待ち受けているであろうエジプトへと帰って行きました。その神は、今、目の前に迫る危機の中で、モーセにその神の杖を取って岩を打てと命じられたのです。
ある本に、「神の約束を信じるとは、神以外のものを放棄することである」と書かれていました。自分はどうだろう、と思わされます。モーセのように、神の約束だけを頼りとし、その杖だけを握りしめるどころか、色々な物に優先順位をつけ、神以外の多くの物に頼ろうとしている。「断捨離」という言葉がありますが、年を取れば取るほど、また、試練に遭った時こそ、私たちの信仰においても、「断捨離」が必要になってくるように思います。イエス様は、

「わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません」(ヨハネ14:27)

と言われました。私たちは、世が与える平安ではなく、イエス様の平安におすがりする者でありたいですね。

<結論>

そして、この時、モーセが神の杖で打ったという「ホレブの岩」なんですが、パウロは、その岩のことを、イエス様を指し示すもの(型)と解釈しています。

『兄弟たち。あなたがたには知らずにいてほしくありません。私たちの先祖はみな雲の下にいて、みな海を通って行きました。そしてみな、雲の中と海の中で、モーセにつくバプテスマを受け、みな、同じ霊的な食べ物を食べ、彼らについて来た霊的な岩から飲んだのです。その岩とはキリストです』(Ⅰコリ10:1~4)。

「イザヤ書」53章の「メシア預言」の中に、

『その打ち傷のゆえに、私たちは癒された』(イザヤ53:5b)

というみことばがありますが、イエス様が打たれたことによって、私たちは癒され、その打ち傷から、いつまでも渇くことのない「いのちの水」、永遠のいのちへの水が湧き出たのです。
今朝の開会聖句、「ヨハネの福音書」7章のみことばは、イエス様のことばです。イエス様は、わたしを信じるなら、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる、とおっしゃいました。どんなに大きな川であっても、その源流を辿れば、それは信じられないほど小さな小さな湧き水のようです。しかし、そんな小さな源流こそ、その川のいのちの源と言えると思います。私たちは大きな川の流ればかりに目を奪われやすいのですが、大切なのは、いつまでも涸れないで、いのちの水を湧き出し続ける源流なんですね。イエス様から流れ出るいのちの水は、永遠に涸れることなく、今日も、そして明日も、私たち信じる者を潤し続けてくれるのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF102KB)

2021年教会行事

週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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