対面礼拝休止期間は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。
メッセージ
<ガラテヤ人への手紙 5章1節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
キリストは、自由を得させるために私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは堅く立って、再び奴隷のくびきを負わされないようにしなさい。
<ガラテヤ人への手紙 5章1節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:9/11 PM 23:48
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・先週は遅い夏休みをいただきました。今年の夏休みは、亡くなった親父の故郷で、子どもの頃、夏休みになると、よく連れて行ってもらった能登半島に50年ぶりに訪れてみたいと思っていたんですが、コロナでの緊急事態宣言中ということもあり断念し、殆ど家にいました。近場を少し自転車などで走ってみましたが、近くても初めての場所は、それはそれで新鮮ですね。
1、律法の目的
さて、今朝の聖書箇所は1節だけなんですが、この「ガラテヤ人への手紙」5章1節のみことばは、いつも読むたびに励まされるみことばの一つです。それは「自由」ということばになんですが、皆さんも、「自由」は、大切なものだと感じておられますよね。今は、コロナのせいで、その「自由」が奪われているように感じている方々も多いのかもしれませんが、それでも、日本では欧米のようなロックダウンはできませんので、言わば、それぞれの自主的な行動の制限、我慢に委ねられている状況です。
先日、東京パラリンピックで、車椅子ラグビーという競技を初めて見て、感動したんですが、私は、「自由」という言葉を聞くと、ラグビー、それも母校である同志社のラグビーを思い出すんです。その同志社ラグビーを代表する選手に平尾誠二という人がいました。私より三年後輩なんですが、彼は5年程前に亡くなりました。そのお墓は神戸にあるそうですが、そこには「自由自在」という文字が刻まれているそうです。その平尾誠二が遺した言葉に、次のような言葉があります。
「人は管理されればされるほど、さぼろうとするもんなんですよ」。
今は、IT技術の進歩で、「管理社会」ということがよく言われるようになりました。私が牧師になる前にいた保険の営業の世界でも、一人一人にパソコンが支給され、顧客情報やスケジュールの管理など、本当に便利になりましたが、その反面、常に管理されているという息苦しさを感じるような時もありました。ちょうど2000年頃から、そんな傾向が強くなってきたように思うんですが、私は、神学校を卒業した年、2008年でしたが、副牧師としてご奉仕をしながら、ある地方銀行で仕事をしました。ちょうどリーマンショックの年だったんですが、本当に管理、管理、管理という感じだったんですね。今日はどんな顧客と会って、どんな話をして、その結果はどうだったか。明日のスケジュール、今週のスケジュールと売上目標はどうなっているか。その進捗状況はどうなのか。根っからの「サボリーマン」だった私は適当にやっていましたが、今の若い人は本当に大変だなと思わされました。ダメな支店長や役員ほど、管理=部下の数字・業績を追及することとしか考えないんですね。少し前から銀行が置かれている厳しい経営環境や将来性云々の話がよく報道されています。色々、難しい問題もあると思いますが、若い行員のやる気を削いでいるのは、そんなところにもあるんじゃないかと思わされました。
さて、そろそろ聖書に戻りたいと思いますが、今日の「ガラテヤ人への手紙」が書かれた背景については、皆さんも何度か聞かれたことがあるかもしれません。(ユダヤ主義者・律法的な福音を説く者がいた。異邦人クリスチャンも救われるためには割礼を受けなければならない)。ただ、3章などを読むとよく分かるんですが、パウロは、律法そのものが悪だとは言ってないんですね。イエス様もそうでした。それは、「マタイの福音書」22章にある、律法の専門家からの質問に対するイエス様の答えを読めば分かります。律法の専門家はイエス様を試そうとして、律法の中でどの戒めが一番重要ですか、と尋ねました。そんな彼に、イエス様は次のように答えられたんです。
『「『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。』これが、重要な第一の戒めです。『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』という第二の戒めも、それと同じように重要です。この二つの戒めに律法と預言者の全体がかかっているのです。」』(マタイ22:37b~40)。
先程、IT技術による行き過ぎた管理の話をしましたが、それは、IT技術の進歩そのものが悪いわけではなくて、その用い方が悪いということですね。律法も同じように、律法そのものが悪いのではなく、私たち人間の、特に、当時のパリサイ人など、律法の専門家たちの用い方、理解の仕方に大きな問題があったということだと思います。
2、律法ののろい
さて、今日のテキストは「ガラテヤ人への手紙」なんですが、パウロは、その3章で「のろい」ということばを使っています。例えば3章10節。
『律法の行いによる人々はみな、のろいのもとにあります。「律法の書に書いてあるすべてのことを守り行わない者はみな、のろわれる」と書いてあるからです』(ガラテヤ3:10)。
或は、12節。
『キリストは、ご自分が私たちのためにのろわれた者となることで、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。「木にかけられた者はみな、のろわれている」と書いてあるからです』(同3:12)。
この「のろい」というのは、私たち人間が、律法というものを、ただ自分を縛るものとして理解し、ある意味、律法に依存するようになり、自らの頭で考えようとしない、そんな状態に陥ってしまったということではないでしょうか。パリサイ人たちは、律法や昔の人々の言い伝えを、本当に熱心に守っていました。パウロも、かつてはそうだったんですが、ただそれは、外面的に見れば律法遵守のようであっても、本当に大切な心の中では、言わば、さぼっているような状態、或は、単に律法に依存するような状態になっていたのではないかと思います。もう、随分前に書かれた本ですが、エーリッヒ・フロムという人が「自由からの逃走」という本の中で、第二次世界大戦前夜のドイツの人々が、積極的な真の自由というものがもたらす孤独と不安とに耐えきれなくなった時、目の前にあったナチズムに依存するようになり、その台頭を許すことにつながったと書いていたんですが、ある意味、律法に依存するということは、それと同じことではないかと思います。
<結論>
ということで、そろそろまとめに入りたいと思うんですが、先程、ご紹介した「マタイの福音書」22章には、律法についての問答以外にも、様々な興味深い問答(論争)が記されています。その一つに、有名な税金についての論争があります。そこで、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」という、あのイエス様が言われた「神のもの」とは一体何なのか?そのことについては以前にもご紹介しましたが、宮田光雄というクリスチャンの政治学者の方が、それは私たち一人一人の内に刻まれた神の像(かたち)のことである、と書いておられたんですね。そして、それは言い換えれば、私たちの人格的な応答性、主体的自由の根拠のことで、平たく言えば良心のことであると。つまり、私たちが本当に神に返さなければならないものは、この良心なんだということですね。それは、誰に強制されるのでもなく、私たちが自発的に進んで神にお献げしなければならないものなんです。神様は、私たちを、自由な者として、神に主体的に応答することのできる人格を持った者として創造してくださいました。しかし、何故でしょうか。それこそ罪の結果だと思うんですが、私たちには、何かに依存し、自分の頭で考えることをしないで、ただ、脅され、やらされているような信仰に陥ってしまいやすい、そんな性質があるように思います。そして、そんな時、私たちから自由にされたという喜びは失われ、ただ、しんどいだけの信仰になってしまうのです。キリストにある真の自由は、神様との関係、隣人との関係に平和をもたらすものです。そして、そうなった時に、初めて、その平和は、自分自身にももたらされるのではないでしょうか。
2021年教会行事
週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
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