体調のすぐれない方、ご不安な方および高齢の方は、当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。
メッセージ
<ヤコブの手紙 4章1~10節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます。罪人たち、手をきよめなさい。二心の者たち、心を清めなさい。
<ヤコブの手紙 4章8節>
メッセージ内容
Youtube動画
動画公開が遅れて申し訳ありません。
メッセージ動画公開:7/11 PM 7:04
メッセージ原稿を公開しました。家庭での礼拝に用いてください。
<序論>
・「ヤコブの手紙」からの二回目です。前回は1章から「自由の律法」と題してお話ししましたが、この手紙の主題は、
『みことばを行う人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者となってはいけません』(ヤコブ1:22)
ということではないかと思います。あのパウロは、「ローマ人への手紙」の中で、
『神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いを通して、価なしに義と認められるからです』(ローマ3:24)
と言っていますが、同じ手紙の中で、
『それでは、どのように言うべきでしょうか。恵みが増し加わるために、私たちは罪にとどまるべきでしょうか。決してそんなことはありません』(同6:1,2a)
とも言っています。「表裏一体」という言葉がありますが、この手紙の著者であるヤコブは、パウロが強調した福音の大切な裏側の部分を語ってくれているのではないかと思います。
1、良いもの
今日のテキストの最初の部分で、ヤコブは、人間の戦いや争いについて言及していますが、考えてみれば、有史以来、この地球上から戦いや争いというものが絶えたことは一度も無かった、と言えるのではないでしょうか。ヤコブは、その原因はあなたがたの中にある戦う欲望にある、と言っています。そして、その上で、自分のものにならないのは、あなたがたが求めないから。求めても得られないのは、自分の快楽のために使おうという悪い動機で求めるからだ、とも述べています。
イエス様は、「山上の垂訓」の中で、
『求めなさい。そうすれば与えられます』(マタイ7:7a)
と言われました。ただ、それはもちろん、どんな願いであったとしても、諦めないで熱心に願い求め続けるなら、必ず願い通りのものが与えられるだろう、ということではないですよね。イエス様は、その後で、次のようにも言われたんです。父なる神は、ご自分に願い求める者たちに「良いもの」を与えてくださるのだと。この「良いもの」と訳されているギリシア語「アガソス」は、様々なことばに訳されています。例えば、「ローマ人への手紙」にある有名なみことば。
『神を愛する人たち、すなわち、神のご計画にしたがって召された人たちのためには、すべてのことがともに働いて益となることを、私たちは知っています』(ローマ8:28)。
この中で「益」と訳されていることばも「アガソス」なんです。神を愛する人たちには、すべてのことがともに働いて益となる。それは、すべて自分の願い通り、思い通りになるということではなく、自分の願いとは違うかもしれないけれども、神は必ず、ご自身を愛する者たちに、良いもの、つまり最善のものを与えてくださるんだ、ということではないかと思います。
2、病者の祈り
私は、もう13年程前になりますが、網膜剥離の手術を淀川キリスト教病院で受けたんですが、それからも、何かご縁があって(あんまりご縁がないほうが嬉しいんですが)、手術や検査で何度か同病院のお世話になっています。その病院のロビーに、ある詩が掲げられています。ご存じの方も多いかと思いますが、それは、「ニューヨーク・リハビリテーション研究所の壁に書かれた一患者の詩」と題された次のような詩です。
“大事を成そうとして力を与えてほしいと神に求めたのに 慎み深く従順であるようにと弱さを授かった
より偉大なことができるように健康を求めたのに よりよきことができるようにと病弱を与えられた
幸せになろうとして富を求めたのに 賢明であるようにと貧困を授かった
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに 神の前にひざまずくようにと弱さを授かった
人生を享楽しようとあらゆるものを求めたのに あらゆるものを喜べるようにと生命を授かった
求めたものは一つとして与えられなかったが 願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず 心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた
私はあらゆる人々の中で最も豊かに祝福されたのだ”
この詩は、「病者の祈り」という題でもよく知られていますが、これらのことばは、決して負け惜しみでもなく、強がりでもないと思います。また、要は気持ちの持ちようだ、ということでもないでしょう。榎本保郎先生は、その著書の中で、
私はらい(ハンセン病)療養所に行くと、いつも人間の悲しみと神の栄光が重なり合っている感じを持つのである、と書いておられました。患者さんたちは自分の責任によらず発病し、人のいとう症状に苦しむ生活をしている。しかし彼らは、失明や手足の不自由の中にありながら、やがて主が再び来たりたもう時にはヨブのごとく、「私は肉を離れて神を見るであろう」と、若々しい幼子のような肉体を与えられて神の前に立つことができるという希望を持っている。これを誰が逃避だと言えるだろうか。現世ではどんなにしてもかなえられないことを神が必ず完全なものにしてくださるという望みがあるからこそ、現実の日々を耐えていけるのである。だから外面は現実逃避に見えてもよい。
私たちは聖書の約束を信じて忍耐していけるのが、不思議であり奇跡であり神の恵みではないだろうか、
と。
<結論>
今日の説教題は「神に近づきなさい」です。ただ、聖書が言っていることは、神の方から私たちに近づいた、近づいてくださったということです。イエス様の宣教の第一声は、皆さんもよくご存じのように
、『「時が満ち、神の国が近づいた。悔い改めて福音を信じなさい。」』(マルコ1:15)
というみことばでした。けれどもヤコブは、
『神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます』(ヤコブ4:8a)
と言います。だいたい私たちの方から神に近づくことなんてできるのでしょうか?それこそ自己義認、行いによって救われるということではないでしょうか?そして、さらにヤコブは、
『嘆きなさい。悲しみなさい。泣きなさい。あなたがたの笑いを悲しみに、喜びを憂いに変えなさい』(同4:9)
と勧めています。理解に苦しみます。これは一体、どういう意味なのでしょうか?
それは、私たちが真剣に神に近づこうとする時、言い換えれば、自分の行いで義と認められるようにと必死に努力すればするほど、「嗚呼!自分はやっぱり、神に近づくことなんてできない人間なんだ」という自分を発見する、ということではないでしょうか。あのパウロも、前回のメッセージでお話ししたルターも、そして、この手紙の著者であるヤコブも、共に行いというものに真剣に立ち向かい、努力した人たちでした。彼らは、何よりも行いによらなければ、というほどに行いというものを追求し、その結果として、それは全く不可能なんだということを嫌というほど覚えさせられた人たちではなかったかと思います。私たちは、どうでしょうか?神の方から近づいてくださった。行いではなく、ただ恵みにより、信仰によって義とされたということを、心のどこかで安易に受けとめ、表面的な笑いや喜びで終ってしまっている。そんなことはないでしょうか。10節に、
『主の御前でへりくだりなさい。そうすれば、主があなたがたを高く上げてくださいます』(同4:10)
とあります。真のへりくだりとは、私たちが真剣に神に近づこうとする時にこそ与えられるものでしょう。神に近づきたい、と切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:154番、メッセージ後:312番
聖書交読
詩編70篇 1~5節
2021年教会行事
7月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#53-2770
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