本物の恵み

感染状況を考慮し、4月18日よりしばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<ヨハネの福音書 5章1~18節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間には与えられていないからです。

<使徒の働き 4章12節>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
・先日1度目のワクチン接種をしました。このワクチンの予約では皆さんも気を揉まれたのではないでしょうか。私は予約状況が92%完了という6日目に、やっと電話がつながり予約しました。この受付方法がまずかったのは、一見公平なようで、現実は「早い者勝ち」だったからです。ネットが使えるか誰かの助けがあるかで、差が出てしまいました。今日の話に出てくる「ベテスダ」とは「恵み」という意味です。その恵みの池にはたくさんの病人が集まっていました。主人公もその一人です。ここで行われていた癒やしは「早い者勝ち」でした。彼には誰の助けもなく、身体が不自由でいつも遅れを取っていました。イエスさまはそんな彼に、本物の恵みを届けられました。しかし、彼はそれを失いそうになりました。一体何があったのでしょうか。

<本論>
Ⅰ.イエスさまの恵みこそ本物です。

1~3節「その後、ユダヤ人の祭りがあって、イエスはエルサレムに上られた。エルサレムには、羊の門の近くにへブル語でベテスダと呼ばれる池があり、5つの回廊がついていた。その中には、病人、目の見えない人、足の不自由な人、からだに麻痺のある人たちが大勢、横になっていた。」

この祭りは、過越の祭だと言われています。イエスさまはエルサレムに着き、ベテスダの池に行かれました。それは神殿から少し北側にある四角形の人工の池のことです。特徴は5つの回廊があることで、四角形を囲む4つの廊下と、真ん中に一本通路があって、合計5つの廊下になります。この回廊では、多くの病人が横になって癒しのときを待っていました。次の4節が抜けていますね。3節の脚注では、そこは異本には記されていて、それによると、「病人たちは水が動くのをじっと待っていた。主の使いが時々降りてきて、水をかきまぜた。その時、最初に池に入った者がどんな病気でも癒やされた。」と説明されています。ここでの癒やしは「早い者勝ち」なのです。枠はたった一人の狭き門。すごい生存競争です。このような恵みは聖書の神さまのお考えとは到底思えません。

実は考古学の発掘調査で、このベテスダの池と思われる場所には、ギリシャの神々の1つである医学の神が祀られていたことがわかっています。ヘレニズムというギリシャ文化は、世界の各地に影響を及ぼしたのですが、ユダヤも例外ではないのです。エルサレムの神殿の近くなのですが、この池での癒やしには異教の影響があったことが考えられます。

5~6節「そこに、38年も病気にかかっている人がいた。イエスは彼が横になっているのを見て、すでに長い間そうしていることを知ると、彼に言われた。『良くなりたいか。』」

38年とわざわざ書かれているのは、その長さが強調されているからで、イエスさまもそのことに心を痛められました。彼は

7節「主よ、水がかき回されたとき、池の中に入れてくれる人がいません。行きかけると、ほかの人が先に下りていきます。」

と答えます。素直に「良くなりたい!」と言えないのは、無理もないかもしれませんね。ルカ福音書8章には、12年間長血を患った女性がでてきます。彼女は医者たちに全財産を費やし、結局誰にも治してもらえなかったという酷い目に遭うのですが、この男性の経験した苦しみはそれ以上かもしれません。人生の大半は病気との闘い。数え切れないくらいの失望。誰も助けてくれる人がいない惨めさと孤独感。いちるの望みを持ってやって来たこのベテスダの池は、競争の世界でした。力も助けもない彼にチャンスは巡ってきそうもありません。

そんな彼にイエスさまの恵みが届けられます。その恵みは、自力で獲得するのではなく、向こうから差し出されたのです。「良くなりたいか。」という語りかけには、「あなたは一人じゃない。わたしはあなたを救いたい。それを信じるか。」というイエスさまの憐れみがこもっています。彼がすがったベテスダの池は、その名にふさわしい恵みの池ではありませんでした。しかし、彼はイエスさまによって本物の恵みを体験したのです。その後、すぐに

8節「起きて床を取り上げ、歩きなさい。」

のことばに応答します。向かった先は神殿です。ユダヤ人の誇りである神殿。目の前に見ながら、決して入ることが許されなかった神殿。時はお祭りです。飛び跳ねるような気持ちで彼は向かっていたのですが、そこで思わぬ出来事に出会います。

Ⅱ.本物の恵みを保ち続けましょう。

彼の前に現れたのはユダヤ人たちで、パリサイ人や律法学者などです。彼らは

10節「今日は安息日だ。床を取り上げることは許されていない。」と言うのです。彼らの律法解釈では、それは安息日に禁じられた労働だったからです。この言い分に彼は言い返しました。
11節「私を治してくださった方が、『床を取り上げて歩け』と私に言われたのです。」

この事件は、この後に起きてくるイエス迫害の大きなきっかけになるのです。皆さんはよくおわかりと思いますが、イエスさまは律法を否定したのではなく、神の価値観のあらわれとして大切にされています。しかし、ユダヤ人たちは、律法を形骸化していました。規則を守ることが大切でした。

彼は混乱したのではないでしょうか。神殿と律法はユダヤ人の誇りなのですが、自分を治してくださった方とユダヤ教は対立するのだろうかと。そう悩んでいる彼を、イエスさまは神殿で見つけて声をかけられました。

14節「見なさい。あなたは良くなった。もう罪を犯してはなりません。そうでないと、もっと悪いことがあなたに起こるかもしれない。」

ちょっと気になることばですね。「今度悪いことしたら、もっと悪いことがあるよ。」と脅しているような。当時の人たちは病気を罪の結果として考えていましたが、9章でイエスさまはそのような因果応報の考えをきっぱり否定されました。ではイエスさまは何を言いたいのでしょうか。イエスさまが来られて、ユダヤ教の時代は終わりました。イエスさまはユダヤ教を遙かに超えた方で、神さまが遣わされた「これぞ本物」なのです。とすると、14節のことばは、異教のまやかしから救われた彼が、今度はすでに役割を終えようとしているユダヤ教に戻り、またしても、本物の恵みを失うことがないようにという、イエスさまの配慮から出たことばだと考えられます。それは、イエスさまを信じて歩みはじめた当時のクリスチャン読者に、ユダヤ教に戻らぬようにという忠告であり、今の私たちには、イエスさまの恵みを失わないようにという忠告だと思います。

この原稿の用意をしているとき、面白い動画を見ました。外国の映像で、畑の側の細い溝に何やら白いものが挟まっていました。2人の男の子が近寄って見ています。「お兄ちゃん、子羊が溝にはさまっているよ。」「助けられるかな」と言いながら、お兄ちゃんは子羊の後ろ足を引っ張ります。強引な引っ張り方にハラハラして見ていましたが、少し引き上げたところで、子羊は自分の前足で地面を蹴り、救出作戦成功です。ぴょんぴょんと軽やかに飛び跳ねて行きました。「ああ、よかった。」と誰もが思ったその数秒後、その飛び跳ねた子羊は、またもやズボッと溝にハマったのです。兄弟の苦笑いと、字幕で「もう一回助けて」と子羊の声が書かれていました。まるで、今日の本物の恵みを失いかけた男の話のようですね。

動画の記事リンクはこちらです

<終りに>

最後に今日の開会聖句、使徒の働き4:12を読みましょう。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」

イエスさま以外に救いはないというのですから、これも狭き門です。しかし、この救いは自力や競争で得るものではありません。イエスさまの方から届けられるものです。皆さんとイエスさまの出会いを思い起こしてください。そして、今もそのイエスさまと共に歩んでいるなら、それは、この男性を見つけて救い、また見つけて救ったように、ずっと守っていてくださったからだと思います。これからもそうです。神さまの深い愛に今週も信頼し、「本物の恵み」をしっかり握って歩みましょう。

メッセージ内容のダウンロード(PDF180KB)

2021年教会行事

大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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