どうしても勝てないもの

京阪神でのコロナ感染者急増と医療現場のひっ迫のため、4月25日、政府から「蔓延防止等重点措置」に代わり、3度目になる緊急事態宣言が発出されました(期限:5月11日→5月31日→6月20日まで延長)。感染状況を考慮し、4月18日よりしばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<箴言 29章18~27節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい。

<マタイの福音書 10章28節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:6/19 PM 3:21

メッセージ原稿を公開しました。 

<序論>  

・5月から始まりました「箴言」からのメッセージも今日で最終回です。今日の箇所は、前回、お話しした、ユダの王ヒゼキヤがソロモンの箴言を書き写すように命じたという箇所の最後の部分になります。

<本論>
1、幻のない民は滅びる

最初の18節の前半に、

『幻がなければ、民は好き勝手にふるまう』

とありました。このみことばは、次のような訳でよく知られているようです。「幻のない民は滅びる」。私も、過去に何度か聞いた記憶があります。それは、「ビジョンを掲げない教会はつぶれてしまう!滅んでしまうぞ!」というような内容であったと記憶しています。ただ、私たちが、今、使っている「新改訳聖書」では少し違っているのですが、なぜ、このみことばが、先程、ご紹介したような訳で知られるようになったのか?少し調べてみましたら、意外な事実を知ることができました。それは、「幻のない民は滅びる」という訳の基になったのは、今から400年以上前の1611年に刊行された「欽定訳聖書(キング・ジェームズ・バージョン)」ということなんです。その頭文字をとって「KJV」と表記されることも多いのですが、この英語訳聖書は、時のイングランド王ジェームズ一世が、イングランド国教会の典礼で用いるために訳させたものなんですが、綴りなどは、刊行後150年以上経った1769年に時代に合わせて修正が行われています。「幻のない民は滅びる」の「滅びる」ということばは、日本語聖書では、明治時代に作られた「文語訳聖書」だけで使われていることばで、元々、「文語訳聖書」は、「欽定訳聖書」や「漢語聖書」を基に訳されたものなんですね。「幻のない民は滅びる」ということばは、確かにインパクトが強烈で、名言(?)と言えるのかもしれませんが、厳密には、原典の意味とは微妙に違っているようです。まず、この『幻』というのは、「将来の計画」や「ビジョン」というよりも、預言者が神から受けた啓示、つまり、今の時代で言えば、神からの啓示である聖書のみことばのことと解釈することができます。また、『民は好き勝手にふるまう』という部分のヘブル語には、元々、「わがままに振舞う」「抑えが効かなくなる」というような意味しかないそうです。つまり、「滅びる」と訳してしまうのは、少し先走り過ぎということになるわけですね。このみことばは、「神からの啓示(聖書のみことば)がなければ、人々は好き勝手に振舞うようになってしまう」。そして、「神のみおしえ(以前の訳では律法となっていましたが)を守ることによって、正しい生活がなされ、祝福が与えられる」と受け止めるべきでしょう。まぁ、結果として、好き勝手に振舞い、神のみおしえを蔑ろにするならば滅びてしまう、ということは言えるかもしれませんが、少なくとも、このみことばには、「滅んでしまうぞ!」という、脅すようなニュアンスはないように思えます。それよりも、神からの啓示を真剣に受け止めることの大切さが強調されています。私たち人間が、自分の思いで、あれをやりたい、これをやりたい、とビジョンを掲げるよりも、神の御前に謙遜になって聖書のみことばをしっかりと心に蓄えること。その大切さを伝えてくれているのです。

2、人を恐れると罠にかかる

そして、今日のテキストで、もう一つ有名なみことばが、25節のみことばではないでしょうか。26節までをお読みしたいと思います。

『人を恐れると罠にかかる。しかし、主に信頼する者は高い所にかくまわれる。支配者の顔色をうかがう者は多い。しかし、人をさばくのは主である』(箴言29:25,26)。

このみことばで私が思い出したのは、「Ⅱ列王記」18~19章に書かれてある出来事です。ヒゼキヤ王というのは南ユダの王たちの中でも抜きんでて素晴らしい王・名君でしたが、彼の治世に、南ユダは深刻な危機に直面します。それは、まさしく国家存亡の危機でした。その引き金となったのが北イスラエルの滅亡です。先週もお話ししましたが、北イスラエルは、紀元前721年に、アッシリアによって滅ぼされてしまいます。そして、北イスラエルを滅ぼしたアッシリアは、南ユダをも攻め取ろうと押し寄せてくるんです。「Ⅱ列王記」18章19節以降には、アッシリア王の使者ラブ・シャケがやって来て、ユダの人たちに降伏を勧告する場面が描かれています。この時のラブ・シャケの勧告、恫喝は、ただの「はったり」ではありませんでした。彼のことばには客観的な事実の裏付けがあり、現実的、且つ論理的でした。ですから、そのことばを聞いたユダの人々は、彼に一言も答えなかった、と書かれています。それはヒゼキヤ王がそのように命じたからなんですが、仮にこの時、そんな命令がなかったとしても、ユダの人々は誰一人として、ラブ・シャケにことばを返すことはできなかったのではないでしょうか。ヒゼキヤ王は、その報告を聞くと、衣を引き裂き、荒布を身にまとって主の宮に入った、と記されています。
彼は、すぐに家来たちを預言者イザヤの下に遣わし、神からの啓示を求めます。そして、ヒゼキヤ自身も、ラブ・シャケから届いた脅しの手紙を携えて主の宮に上り、それを広げて呻くように祈るんですね。19章15~19節には、その時の彼の祈りのことばが書かれているのですが、その必死さが伝わってくるようです。そんなヒゼキヤに対して、神は次のように答えられます。

『それゆえ、アッシリアの王について、主はこう言われる。『彼はこの都に侵入しない。また、ここに矢を放たず、これに盾をもって迫らず、塁を築いてこれを攻めることもない。彼は、もと来た道を引き返し、この都には入らない─主のことば─。わたしはこの都を守って、これを救う。わたしのために、わたしのしもべダビデのために』(Ⅱ列王19:32~34)。

私たちはヒゼキヤのような王ではありませんし、そんな重大な危機に直面させられることもないかもしれません。しかし、日常生活の中で、人に対して小さな恐れを抱いたり、また、その裏返しとして、小さな優越感を抱いたりすることは、多くの人が経験することではないでしょうか。聖書が言っていることは、私たちが人を相手にして、或は人と比較して、時には勝った、負けたというような、優越感や劣等感に縛られること自体、本当に馬鹿馬鹿しいことだということです。そうではなくて、私たちが、どうしても勝てないもの、つまり父なる神に目を向けて生きなければならない、ということではないかと思います。

<結論>

藤木正三師は、その著書の中で「勝てないものを相手に」と題して、次のように書いておられました。

「何かしら醜さを感じる人がいます。教養がないわけではない、性格が悪いわけでもない。むしろ細やかな思いやり、洗練された言葉遣い、非の打ちようがないのに何か醜さを感じる人がいます。そういう人に共通しているのは、表面には出さないようにはしていますが、勝利者の意識を持っていることです。この場合、勝つとは人に勝つこと、小さな勝利に酔っていることのその浅ましさが、醜さなのでしょう。美しく生きるためには、どうしても勝てないものを相手に生きねばなりません。信と美とが結びつく所以の一つはここにありましょう。」11「神の風景」藤木正三著 ヨルダン社 P239

最後に、今日の開会聖句である、イエス様のみことばをお読みして、私の「箴言」からのメッセージを閉じたいと思います。

『からだを殺しても、たましいを殺せない者たちを恐れてはいけません。むしろ、たましいもからだもゲヘナで滅ぼすことができる方を恐れなさい』(マタイ10:28)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF102KB)

2021年教会行事

大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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