神の誉れ 王たちの誉れ

京阪神でのコロナ感染者急増と医療現場のひっ迫のため、4月25日、政府から「蔓延防止等重点措置」に代わり、3度目になる緊急事態宣言が発出されました(期限:5月11日→5月31日→6月20日まで延長)。感染状況を考慮し、4月18日よりしばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<箴言 25章1~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう。その人は主人の心を生き返らせる。

<箴言 25章13節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:6/12 PM 10:25

メッセージ原稿を公開しました。 

 
<序論>  

・今日の 25章、そして 29章の最後までがそうなんですが、ソロモンの箴言を、ユダの王ヒゼキヤの時代に、彼のもとにある人々が書き写したものとされています。その詳細は不明ですが、恐らく、この頃まで口伝によって伝えられて来た多くの箴言を、ヒゼキヤ王に属する書記官たちが書き写し、編集したのではないかと思われます。

<本論>
1、ユダの王ヒゼキヤ

ヒゼキヤ王については、既に説教で何度か取り上げました。彼は、ソロモン王より200 程後の、南ユダ王国 13代目の王です。紀元前 931年、ソロモン王が死ぬと、イスラエルは程無くして北と南に分裂します。北イスラエル最初の王となったのは、ソロモンの家来であったヤロブアム、そして、南ユダ最初の王は、ソロモンの息子のレハブアムでした。北イスラエルには、イスラエル十二部族の内十部族がつき、南ユダには、ユダ族とベニヤミン族の二部族だけがつきました。北イスラエルはヤロブアムの謀反によって生まれた国ではありましたが、「Ⅰ列王記」11 章などを見ると、神は預言者アヒヤを通して啓示を与えておられますので、王国が分裂することは神のみこころでもありました。ですから、北イスラエルは、ダビデへの神の約束とソロモンの罪に対する神の裁き、その両方を担わされて誕生した国であったと言えると思います。
しかし、建国後、何度も王朝が入れ替わり、隆盛を誇った時代もありましたが、残念ながら、主の目にかなうような王は一人も出てきませんでした。最終的には、紀元前721 年、アッシリアによって滅ぼされ、「失われた十部族」とよく言われますが、ヤコブから続くその家系は完全に絶たれてしまいます。一方、南ユダも、紀元前 586年、バビロニアによって滅ぼされ、バビロン捕囚という大きな苦難を経験することになるのですが、神は、ダビデへの約束を守るため、特別にユダの家とその家系を選ばれ、捕囚からの解放、帰還、神殿の再建を経て、最終的にはイエス・キリストにまでつながる祝福を担うという役割を与えられました。ですから、歴代の王を見ましても、北の場合とは異なり、神の目にかなう名君と呼べるような王が何人か出ています。ヒゼキヤ(紀元前 715~686年)も、その内の一人だったのです。「Ⅱ列王記」1章には次のように書かれています。

『彼は、すべて父祖ダビデが行ったとおりに、主の目にかなうことを行った。高き所を取り除き、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、モーセが作った青銅の蛇を砕いた。そのころまで、イスラエル人がこれに犠牲を供えていたからである。これはネフシュタンと呼ばれていた。彼はイスラエルの神、主に信頼していた。彼の後にも前にも、ユダの王たちの中で、彼ほどの者はだれもいなかった』(Ⅱ列王 18:3~5)。

そんなヒゼキヤ王の命令によって書き写されたのが、今日の箴言です。

2、誉れ 栄光 本質

2節のみことばを、もう一度、お読みします。

『事を隠すのは神の誉れ。事を探るのは王たちの誉れ』(箴言 25:2)。

この

『誉れ』

と訳されているヘブル語「カーボード」は、「栄光」とも訳せるのですが、そこには「本質」という意味もあるそうです。つまり、事を隠すのは神の本質である、ということです。イエス様は、最後の晩餐の席で、ペテロに向かって、「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります」と言われました。それは食事の途中で弟子たちの足を洗われた時でした。ペテロだけがそれを拒んだのですが、その時、ペテロには、その意味が分からなかったのです。だから彼は、ある意味、正直に、それを行動で示したのだと思うんですが、実は、その足を洗うということには、大切な意味が隠されていたのです。私たちにも、「なぜ?」と思ってしまう時があります。しかし、子どもが親の心を十分に知ることができないのと同じように、私たちも神のみこころを、ご計画を十分に知るということはできないのです。事を隠すのは神の本質である。私たちも忘れないでいたいですね。
一方で、

『事を探るのは王たちの誉れ』

というみことばですが、これは、一切の事柄の原因とか問題の核心を極めていって、そのことから正しい政治を行ってゆくのが王たちの誉れ、つまり、王たちの仕事の本質であるということです。先程もお話ししましたように、ヒゼキヤ王は名君として知られていますが、もしかしたら、この箴言を「座右の銘」としていたのかもしれません。彼が残した業績の中で特に有名なのは、地下水路を造ったことです。南ユダは四方を山に囲まれており、守るには非常に堅固なものがありましたが、兵糧攻めや水を断たれると弱かったんですね。ヒゼキヤは、その問題こそ、自分の国にとって解決すべき最優先事項であるということを見抜き、広大な地下水路を造らせ、恒常的な飲み水の確保に成功したのです。その水路は今も残っており、「ヒゼキヤの泉」と呼ばれているそうです。ただ、聖書がヒゼキヤ王を高く評価している所以は、そのような彼が残した業績よりも、先程、お読みした「Ⅱ列王記」のみことばにあった、「彼はイスラエルの神、主に信頼していた」という、その一点にあるようです。事を探るのは王たちの誉れ。ヒゼキヤの政(まつりごと)の根底には、神へのゆるぎない信頼と、問題の核心を見極めるために与えられた神からの知恵があったのです。

<結論>

最後に少し飛びますが、今日の開会聖句、13 節をもう一度ご覧ください。

『忠実な使者は、これを遣わす者にとって、刈り入れ時の冷たい雪のよう。その人は主人の心を生き返らせる』(箴言 25:13)。

『刈り入れ時の』

というところは、脚注に

※あるいは『夏の暑い日の』

と書かれています。前の訳ではそのようになっていたんですが、これからの季節には、その方がピッタリなような気がします。この 13節もそうですが、11節から 14節まで、そのような比喩的表現が続きます。まさに「箴言」=<比喩>ということを感じさせられる箇所なんですが、イスラエルでは、使者というのは、貴重品や秘密の文書などを運ぶ、非常に重要な役割を果たす人でした。否、イスラエルに限らず、昔はどこでもそうであったと思います。今の時代であれば、それこそ、(携帯)電話やメール、宅急便など、様々な便利な方法がありますが、昔は、人間が直接出かけて行ってお伝えするしか、確実な方法はなかったのですから。であれば尚更、主人は本当に信頼できる僕にしか、その役目を頼むことはなかったでしょう。使者に選ばれるということ自体、僕にとっては大変名誉なことだったのです。
忠実な使者に期待されている第一のことは、自分の考えや思いではなく、主人の心をそのまま、ストレートに伝えることです。その人は刈り入れ時や夏の暑い日の冷たい雪のように、主人の心を生き返らせます。神は、私たち一人一人にも、そのような役割を果たすようにと期待しておられるのではないでしょうか。私たち人間には神のみこころの全てを知ることはできませんが、少なくとも、みことばを自分に都合よく解釈し、混ぜ物をしてお伝えするようなことがないように、と切に願います。
最後に、「イザヤ書」52 章 7 節のみことばをお読みして、今日のメッセージを閉じたいと思います。

『良い知らせを伝える人の足は、山々の上にあって、なんと美しいことか。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神は王であられる」とシオンに言う者の足は』(イザヤ 52:7)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF113KB)

2021年教会行事

大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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