メッセージ
<箴言 23章1~8節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。
<ピリピ人への手紙 3章7節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:6/5 PM 3:04
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「箴言」からの第5回目です。22章17節から24章22節までは、『知恵のある者たちのことば』が語られます。そこでは10章以降に見られたような二行からなる対句ではなく、その前の1節から9章にあったような数行からなる(しばしば四行)形式が用いられます。22章20節、21節には、次のように書かれています。
『私はあなたのために、勧告と知識についての三十句を書いたではないか。これは、あなたに真理のことばの確かさを教え、あなたを遣わした者に、真理のことばを持ち帰らせるためである』(箴言22:20,21)。
今日の23章は、その三十句の内の一つということになります。
1、支配者のごちそう
1節から3節は、三十句の内の第六番目の格言です。ある方は、このみことばを、食事の際の礼儀作法についての教えと解釈しています。ただし、それは日常の食事ということではなくて、支配者との食事という特別な席における礼儀作法・注意点と言えます。確かに、このみことばには、「支配者から食事に招かれても、彼には隠された動機があるかもしれないので注意しなければならない」という意味が込められているように思えます
。2節の『自分の喉に短刀を当てよ』
ということばは、「あなたの食欲を控え目にせよ」という意味ですよね。この箇所について、以前に、面白い解釈?否、適用と言った方がいいのかもしれませんが、読んだことがあります。それは、次のようなものでした。
「会社で成功するためには、宴会の席が設けられたりすることがあります。豪華な料理が並んだとしても、むさぼって食べないように勧めています。様々な誘惑がやってきます。充分に気をつけましょう」。
思わず笑ってしまったんですが、牧師になる前、サラリーマンをしていた私には、とてもピンとくるアドバイスでした。ただ、既にご説明しましたように、「箴言」には、元々「比較」という意味があります。ですから、このみことばも、比喩的な表現であると思うのですが、『支配者』ということばから連想されるのは、やはり旧約時代の「王様」ではないかと思います。それは、絶対的、かつ独裁的な権力者のイメージです。そもそも、3節の『それは偽りの食物である』というみことばの「偽り」ということばには、騙すというよりは、他に目的があるという意味だそうです。つまり、そのような権力者と食事を共にするような時、言い換えれば、権力者から何らかの働きかけがあった時には、他に隠された目的があるはずだから、よくよく注意せよ、と聖書は言ってるんですね。私は、このみことばを読んで、安倍前首相の「桜を見る会」の問題を思い出しました。今は、コロナ、コロナで、オリンピックのことばかりに注目が集まり、その追及もうやむやになってしまったような気がするんですが・・・。私は、もうずいぶん前になりますが、ある映画(1965年9月30日にインドネシアで起こった軍事クーデターと、その後の大虐殺を題材にして作られた「アクト・オブ・キリング」)を通して、この世界には、本当に酷い、目を覆いたくなるような悪政・暴虐が権力者によって行われているんだなぁということ。そして、それらの多くは巧妙に隠蔽され、今なお、明らかになっていないんだなぁということを思い知らされたことがあります。それらはすべて、人間が行ったことなんですが、その背後には、悪魔的な力が働いているということも強く思わされました。
パウロは、「エペソ人への手紙」の中で、次のように言っています。
『私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗闇の世界の支配者たち、また天上にいるもろもろの悪霊に対するものです』(エペソ6:12)。
イエス様は、「主の祈り」の中で、「御国を来たらせたまえ。御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈れと言われました。だから、私たちも祈り続けましょう。
2、富を得ようと苦労してはならない
そして、4節と5節。
『富を得ようと苦労してはならない。自分の分別によって、これをやめよ。あなたがこれに目を留めると、それはもうないではないか。富は必ず翼をつけて、鷲のように天へ飛んで行く』(箴言23:4,5)。
更に、6節から8節。
『物惜しみする人のパンを食べるな。彼のごちそうを欲しがるな。彼は、心のうちでは勘定ずくだから。あなたに「食え、飲め」と言っても、その心はあなたとともにない。あなたは、食べた食物を吐き出し、ほめことばを無駄にすることになる』(同23:6~8)。
確かに、処世の知恵として、私たちも大いに気をつけなければならない事柄のように思えます。しかし、ここには、単に上手な世渡りをするための知恵が語られているだけなのでしょうか?
ちいろば牧師の榎本保郎師は、「旧約聖書一日一章」の中で、この1節から8節までの三つの格言をまとめて、次のように解説しておられました。
「王の宴席、富、人のもてなし、これらの三つは共に私たちの心を引くものである。しかし、これら三つのものには私たちを捕える魔性のようなものが潜んでいる。(中略)一体この世を愛さない人がいるであろうか。この世に生きている私たちは、この世とのかかわりを捨てることはできない。我々は隠遁者や世捨人になるのではない。この世に遣わされ、神がこの世を愛されたようにこの世を愛していく者である。そういう者が常に気をつけていなければならないことは、この世の持っている魔性である。箴言の知者は、王の招宴の場合、「あなたののどに刀をあてよ」と戒めている。それは、この魔性に注意せよということであろう。そこには、自分の命をもとろうとする恐ろしい力のあることを覚えつつ、世にあって生きていくことが大切である。特に信仰の生涯を全うしようと願う者は、この点充分わきまえていることが大切であろう」。i
i 「旧約聖書一日一章」榎本保郎著(主婦の友社)P692
私は、この一文を読んで、本当にそうだなと思ったんですが、榎本先生が言うところの「この世の持っている魔性」とは、別の言い方をすれば「この世の持っている価値観」とも言えるのではないか、と思わされました。
<結論>
今日の開会聖句は、「ピリピ人への手紙」にあるパウロのことばです。あのダマスコ途上で復活のキリストと出会って、彼の価値観は180度、変わりました。そのことを告白しているのが、このみことばです。9節までお読みしたいと思います。
『しかし私は、自分にとって得であったこのようなすべてのものを、キリストのゆえに損と思うようになりました。それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、私はすべてを損と思っています。私はキリストのゆえにすべてを失いましたが、それらはあくただと考えています。それは、私がキリストを得て、キリストにある者と認められるようになるためです。私は律法による自分の義ではなく、キリストを信じることによる義、すなわち、信仰に基づいて神から与えられる義を持つのです』(ピリピ3:7~9)。
私たちは、この世に生きる者ではありますが、この世の価値観に生きる者ではありません。今、お読みした
9節の、『キリストを信じることによる義』ということばには※印がつけられていて、脚注に※別訳『キリストの真実による義』と書かれてあります。
私たちは、キリストの真実である十字架と復活によって罪贖われ、己の義ではなく、もちろん、この世の価値観にでもなく、キリストの義に生きる者とされた者たちです。お互い、その義に相応しく歩む者でありたいですね。
2021年教会行事
大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
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