メッセージ
<箴言 17章1~14節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす。
<箴言 17章22節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:5/30 AM 5:52
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「箴言」からの4回目のメッセージです。
1、一切れの乾いたパン
前回のメッセージで、10章から22章までは「箴言」の第二集・中心部分であり、ソロモンが作ったと言われている3000の箴言の内、374の箴言が対句の形で収められているということをお話ししました。今日の17章もその内の一つなんですが、ある注解書には、この17章に「賢明な者と愚かな者」という表題がつけられていました。その賢明さや愚かさというのは、もちろん、単に頭が良いとか悪いとかということではありません。それは、神に従う者の歩み、生き方とは、どのようなものであるべきかということではないかと思います。
まず、最初の1節のみことばに注目したいと思います。
『乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる』(箴言17:1)。
皆さんが使っておられる新改訳聖書では、この『ごちそう』ということばに星印がついていると思いますが、脚注には※直訳「争いのいけにえ」と書かれてあります。新共同訳聖書では「いけにえの肉」と訳されているんですが、私は、このみことばを読んで、ソロモンの晩年の暮らしぶりと言いますか、その苦悩のようなものを思わされました。以前にもお話ししましたが、「Ⅰ列王記」には、彼が、晩年、多くの側室を持ったことが記されています。それらの女性は、外国から連れて来られた人たちでしたので、元々、自分が礼拝していた多くの異教の神々(偶像崇拝)をイスラエルに持ち込みました。その結果、ソロモンの家は深刻な争いに巻き込まれ、神からの祝福を失ってしまうことになったわけです。彼の死後、イスラエル王国は北と南に分裂してしまいますが、このことが大きな原因になったと言われています。そんなことを考えながらこの1節のみことばを読むと、何かこのことばはソロモンが自らへの戒めを込めて語ったことばではないのかな、と思えてきたんです。ただ、私なんか性格がひねくれてますので、こんなことばを読むと、「そんなこと言うても、昔から『衣食足って礼節を知る』とも言うからなぁ。そら、ごちそうがあって平和な家が一番ええんちゃうん!」と、すぐに思ってしまうんですが、聖書が言っているのはそういうことではないんですね。同じ「箴言」の30章8節に、次のようなみことばがあります。
『むなしいことと偽りのことばを、私から遠ざけてください。貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください』(同30:8)。
この「貧しさも富も私に与えず、ただ、私に定められた分の食物で、私を養ってください」ということばを読むと、私はいつも「ほんま、その通りやなぁ」と思わされるんですが、「格差」ということが言われ出して久しいです。世界中で、そして、この日本においても、極端な格差、富の偏りが見られます。極端な貧しさも、極端な豊かさも、そのどちらも、私たち人間の心を狂わせます。私は、「共産主義」というものについてしっかりと勉強したことはないんですが、ある方は、その本質を、「能力に応じて働き、必要に応じて分配する」ことだと書いておられました。それを読んで、「なるほどなぁ」と思わされたんですが、もし、その通りに行うことができるなら、この世から「格差」というものはなくなるでしょう。しかし、私たち、罪ある人間にとっては、とてつもなく難しいと言うか、無理なことなんですね。イエス様は、「主の祈り」の中で、「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と祈りなさい、と教えてくださいました。ですから、私たちも祈りましょう。「我らの日用の糧を、今日も与えたまえ」と。
2、愛を追い求める者
さて、「箴言」に戻りますが、17章5節をもう一度ご覧ください。
『貧しい者を嘲る者は自分の造り主をそしる。人の災難を喜ぶ者は罰を免れない』(箴言17:5)。
「人の不幸は蜜の味」ということばがあります。嫌なことばですが、それは私たち人間の恥ずべき性(さが)と言うか、心の底に潜む原罪のようなものを言い表しているように思えます。以前、ある姉妹から(その方は、私から見たら本当に素晴らしい信仰者と思えるような方なんですが)、「自分にとって本当に難しいのは、悲しむ人と一緒に悲しむことではなくて、喜ぶ人と一緒に喜ぶことなんです」という証しを聞いたことがあります。本当に正直に話してくださったと思うのですが、自分も同じだなぁと思わされました。聖書は、神はすべての人の造り主であり、すべての人のことを大切に思い、愛しておられる、と証ししています。ですから、そのような人の弱みにつけ込み、嘲る者、災難を喜ぶような者は、造り主をそしる者であり、罰を免れないのです。
そして、8節のみことばですが、
『賄賂は、その贈り主の目には宝石、その向かうところ、どこにおいても、うまくいく』(同17:8)。
何か、一見すると、「賄賂を勧めてるの?」と思ってしまいます。ただ、今日は読みませんでしたが、同じ17章の23節には、次のようなみことばがあります。
『悪しき者は人の懐から賄賂を受け取り、さばきの道を曲げる』(同17:23)。
聖書が言っているのは、賄賂は、それを贈る側も贈られる側も悪しき者であるということであり、これもまた、私たち人間の社会の現実を言い表したことばなんですね。決して賄賂を勧めているわけではありませんので、誤解のないように。
そして、9節。
『愛を追い求める者は背きの罪をおおう。同じことを蒸し返す者は親しい友を離れさせる』(同17:9)。
背きの罪をおおうとは、自分に対して為された人の罪を赦すという意味です。また、年を取れば、誰でも、同じことをくり返して言うようになるみたいですが、ある注解書に、同じことを蒸し返す者とは、「人のことを言いふらす者」と訳すこともできると書いてありました。ちなみに、新共同訳聖書は、『前言を翻す者は』と訳しています。その、どちらも、心に留めておかなければならないことではないでしょうか。
<結論>
そして、最後の14節なんですが、
『口論の始まりは水が吹き出すようなもの。争い事が起こらないうちにやめよ』(箴言17:14)。
争い事というのは、最初は、小さなことから起こるかもしれないけれども、やがて、それが大きくなってしまうと、もう誰にも止めることができなくなってしまう。だから、そんなことになってしまう前にやめよ、ということなんですが、これも難しいことです。最近、私自身、よく思わされることですが、人間、年を取ると、なかなか素直に「ごめんなさい」と謝ることができない。論語に、「過ちては改むるに憚ること勿れ」ということばがあるそうです。それは、人は誰も過ちを犯すものだが、その過ちに気づいたら、自分の面目や他人の目など気にせず、すぐ改めるべきだ、という意味です。大切なことですね。それと、もう一つ、もうずいぶん前のことなんですが、あるクリスチャンの方とお話しをしていて、「こだわり」が強いということも、良し悪しだなということを思わされたことがありました。まぁ、この日本という国でクリスチャンとして生きていくためには、こだわりが強くなければ難しいのかもしれませんが…。物事にこだわるということは、言い換えれば、執着心が強い、目標や夢に向かってあきらめない、とも言えると思います。ただ、それが余りにも、病的にと言うか、自分だけのこだわりが強すぎると、そのこだわりの強さが、他人の気持ちを思いやることができない、或は、自分と違う考え方を認めることができない、ということにつながり、争いを大きくしてしまうこともあるのではないかと思います。
今日の開会聖句、22節のみことばをご覧ください。
『喜んでいる心は健康を良くし、打ちひしがれた霊は骨を枯らす』(同17:22)。
今日の説教題は、「陽気な心」とさせていただきましたが、それは、前の【第三版】の訳から取らせてもらいました。
『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす』【新改訳第三版】。
以下、同じ箇所の訳ですが、参考までにご紹介しておきます。
『心の楽しみは良い薬である。たましいの憂いは骨を枯らす』【口語訳】。
『喜びを抱く心はからだを養うが/霊が沈みこんでいると骨まで枯れる』【新共同訳】。
最後に、いつも落ち込んだ時、心が暗くなった時に、何故か思い出すみことばがあるんですが、そのみことばをお読みして、今日のメッセージを閉じたいと思います。同じ「箴言」のみことばです。
『何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く』(同4:23)。
2021年教会行事
大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
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