神の知恵に聞き従え

京阪神でのコロナ感染者急増と医療現場のひっ迫のため、4月25日、政府から「蔓延防止等重点措置」に代わり、3度目になる緊急事態宣言が発出されました(期限:5月11日→5月31日まで延長)。感染状況を考慮し、4月18日よりしばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<箴言 8章22~36節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主から恵みをいただくが、わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。

<箴言 8章35~36節>

メッセージ内容

Youtube動画


メッセージ動画公開:5/9 AM 2:50

メッセージ原稿を公開しました。 


 
<序論>  

・「箴言」からの二回目です。「箴言」のへブル語の名前(ミシュレ―)は比喩という意味だと前回お話ししましたが、この8章では、知恵が擬人化され、知恵自身が人格を持った存在であるかのように語られます。この擬人化も比喩の一つであり、人間以外のものを人間にたとえて、人格を持った存在のように表現する方法です。今日は読みませんでしたが、この8章の前半、1~21節では、知恵が人々に呼びかける様子が描かれています。そして、最程、お読みした22~31節では、私たち人間の知恵ではなく、神の知恵というもの性質・特徴について語られます。そして、最後の32~36節は、神の知恵に聞き従うように、という結論・結びのことばになっています。

<本論>
1、神の知恵であるキリスト

この『わたし』とは、著者(ソロモン)のことではありません。先程も申し上げましように、これは擬人化された知恵のことなんです。そして、皆さんもご存じかと思いますが、新改訳聖書は、ひらがなの「わたし」と漢字の「私」とを区別して使っていますので、この知恵は人間の知恵のことではなく、神の知恵であるということが分かります。さらに言うと、この箇所の知恵は、古くから、キリストを指していると解釈されてきました。確かに、新約聖書の「Ⅰコリント」には、次のようなみことばがあります。
『しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、ユダヤ人であってもギリシア人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです』(Ⅰコリ1:23,24)
或は、「コロサイ人への手紙」にも、次のように書かれています。

『このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています』(コロ2:3)。

今日のテキストの「箴言」8章で擬人化された知恵が、そのままキリストを指しているとまでは言い切れないかもしれませんが、少なくともキリストを暗示している、ということは言えるのではないかと思います。

2、わたしを得ておられた

さて、今日のテキストの最初のことば、「箴言」8章22節のみことばなんですが、少し分かりにくい訳になっています。

『主は、ご自分の働きのはじめに、そのみわざの最初に、わたしを得ておられた』(箴言8:22)。

実は、このみことばは、神学の歴史上、有名な議論になった箇所なんです。それは、4世紀に異端とされたアリウスという人が、七十人訳聖書(ギリシア語訳旧約聖書)がこの箇所の「得ておられた」ということば(へブル語で「カーナー」)を「造られた」と訳したことを根拠にして、キリストも神の被造物の一つに過ぎなかったと主張したからです。現代でも、「エホバの証人」の人たちはそのように主張しているようです。その神学的議論の詳細についての説明は控えますが、結論から申し上げますと、その主張は間違っていて、神は、ご自分の働きのはじめに、つまり、この天地を創造される以前から、知恵を持っておられた。すなわち、ここで言う知恵は、天地創造以前から存在していた、と解釈するのが正しいということなんですね。これは、新約聖書で言えば、「ヨハネの福音書」冒頭のみことばと対応していると言えます。

『初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった』(ヨハネ1:1)。

3、人の子らを喜んだ

ヨハネは、初めに神とともにおられた方のことを「ことば(ロゴス)」と呼びましたが、その方は、神が定められた時に、人となって私たちの世界に来てくださった、と聖書は証言しています。もう、15年以上前のことですが、私は、神学校に入学する際に書いた「証し」の冒頭で、「へブル人への手紙」のみことばを引用させてもらったんですが、それは次のようなみことばでした。

『神は昔、預言者たちによって、多くの部分に分け、多くの方法で先祖たちに語られましたが、この終わりの時には、御子にあって私たちに語られました。神は御子を万物の相続者と定め、御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現れであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。御子は罪のきよめを成し遂げ、いと高き所で、大いなる方の右の座に着かれました』(へブル1:1~3)。

神学の世界で「啓示の漸進性」ということが言われることがあります。それは、神の啓示(みこころ)は一度に全てが明らかにされたのではなく、長い歴史の中で段階を追って(漸進的に)明らかにされたという意味です。つまり、時が満ち、イエス様が救い主(メシヤ)としてこの世界に来てくださったことによって、神の知恵が、私たち人間により一層はっきりと示されたわけです。
そして、今日の「箴言」の中のわたし、つまり神の知恵である方は、この世界が創造される前から存在しておられただけでなく、その創造の業そのものにまで参与しておられた、とありました。

『わたしは神の傍らで、これを組み立てる者であった。わたしは毎日喜び、いつも御前で楽しんでいた。主の地、この世界で楽しみ、人の子らを喜んだ』(箴言8:30,31)。

福音書には、イエス様がご自分のことを指して『人の子』と言っておられるところがありますが、この箇所の『人の子』というのは、文字通り「人間」のことです。父なる神の傍らで、わたしは神とともに創造のわざに参与し、被造物のかしらである人が創造されたことを喜んだということですね。神の知恵である方が創造の業を喜んだということは、「創世記」1章の最後に書かれてあるみことばと対応しています。

『神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった』(創世1:31a)。

わたし、つまり神の知恵である方が、ことに人の子らを喜ばれたのは、人間が神の創造の冠だからではないでしょうか。

<結論>

最後に、今日のテキストの「箴言」8章32節以降を、もう一度ご覧ください。

『子たちよ、今、わたしに聞き従え。幸いなことよ。わたしの道を守る者は』(箴言8:32)。

このみことばは、まるでイエス様の御声のように聞こえます。そして、33~36節。

『訓戒を聞け。知恵を得よ。これをなおざりにしてはならない。幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱のわきで見守って、わたしの言うことを聞く人は。なぜなら、わたしを見出す者はいのちを見出し、主から恵みをいただくが、わたしに背を向ける者は自分自身を痛めつけ、わたしを憎む者はみな、死を愛するからだ。」』(同8:33~36)。

今、お読みした中の『背を向ける』ということばは、前の訳では「見失う」となっていましたが、ヘブル語では「ハーター」、元々、「的をはずす」とか「し損なう」という意味のことばでした。そこから、「罪を犯す」という意味を持つようになったんですが、残念ながら、私たちは皆、等しく、罪を犯す者です。それを避けては通ることはできませんが、願わくは、神の知恵である主イエスに背を向ける者、憎む者ではなく、主を見出し、愛する者であることができますように、と切に祈ります。

メッセージ内容のダウンロード(PDF102KB)

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