メッセージ
<箴言 1章1~7節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む。
<箴言 1章7節>
メッセージ内容
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メッセージ動画公開:5/2 AM 0:20
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「箴言」は、旧約聖書の分類上では、「ヨブ記」や「伝道者の書」とともに「知恵文学」の一つとされています。英語では「プロバーブ」、ヘブル語で「ミシュレー」と言いますが、ヘブル語のもとの形は「マーシャール」で、その本来の意味は「比較」や「比喩」「直喩」です。聖書全体がそういうもので満ちているとも言えますが、例えば「箴言」には、
『豚の鼻にある金の輪。美しいが、たしなみのない女』(箴言11:22)
というような極めて辛辣な表現が出てきます。興味深いのは、日本語の「箴言」という名前の由来が鍼灸の鍼(はり)から来ているということです。今の鍼灸の鍼は金属製ですが、古代中国では竹が使われていたそうです。そう言われると、なるほど「箴言」の「箴」は竹冠です。これも比喩による表現になりますが、鍼灸の鍼が身体の調子を整えるためにつぼ(経穴)に刺すものであるように、「箴言」とは、私たちの生き方を整えるために刺すことばの鍼のようなもの、と言えるかもしれません。
1、箴言の著者
『イスラエルの王、ダビデの子ソロモンの箴言』(箴言1:1)。
この最初のことばは、「箴言」全体の表題と言ってもいいでしょう。ただ、「箴言」は31章までありまして、そのすべてがソロモンの作というわけではないようです。
10章1節にも、『ソロモンの箴言』
とありますが、
22章17節や24章23節以下は、『知恵のある者たちのことば』
と書かれています。この『知恵のある者(ハーカーム)』というのが誰を指すのかは明らかではありません。ただ、イスラエルの王に即位した時、神から「あなたに何を与えようか。願え」と言われ、善悪を判断するための知恵を願ったというソロモンを連想させますよね。また、25章の冒頭には『次もソロモンの箴言であり、ユダの王ヒゼキヤのもとにある人々が書き写したものである』という注釈があります。ヒゼキヤの治世はイスラエルが南北に分裂した後の紀元前728~686年ですから、ソロモンの時代より200年以上後ということになります。そして、最後の30,31章は、それぞれソロモンとは別の人物のことばとして書かれています。以上のことから言えることは、初めに申し上げましたように、この「箴言」の著者はソロモン一人ではないということなんですが、全体として見れば、ソロモンに由来するものが多いということは言えるのではないでしょうか。
2、ソロモンの栄光と挫折
さて、ソロモン王については皆さんもよくご存じかと思いますが、彼は古代イスラエルの三代目の王で、あのダビデ王の息子です。母親はウリヤの妻であったバテ・シェバで、その誕生の経緯はよく知られていますが、紀元前990年頃に生まれ、971年に父ダビデの後を継いで即位します。その際には腹違いの兄アドニヤとの後継者争いもありましたが、あの預言者ナタンなどの助けもあって、兄アドニヤを退け、王となります。そして、紀元前966~946年にかけて、あの有名な神殿と自分の王宮建設に力を注ぎ、見事に完成させます。彼は約40年もの間、統一イスラエルの王であったわけですが、その治世はイスラエルのまさに絶頂期・黄金期と呼べるものでした。そして、931年に亡くなるんですが、彼の死後、息子レハブアムが即位して間もなく、イスラエルは北と南に分裂します。その原因は「Ⅰ列王記」11章などに記されています。ソロモンは、父ダビデと比べると、やることなすこと、そつがないと言いますか、万事スマートな印象を受けます。それはもちろん、神からいただいた知恵によってということなんですが、晩年は、驕り高ぶる思いからか、裸の王様のようになってしまったようです。彼が力を存分に発揮した政治の世界、外交の世界は、昔も今も、切った張ったの「生き馬の目を抜くような世界」です。ソロモンはそんな世界で生き抜いて来て、最後は、この世のことにはこの世の知恵で対処しよう。「そんなこと言っても、現実はこうなんだから」と、神のみこころよりも、この世の道理や常識に従って賢くやっていこうとしたんじゃないか。そのように思うんです。この自分はどうだろう、大丈夫かなぁ、と考えさせられます。
3、主を恐れること
『主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑む』(箴言1:7)。
今日の開会聖句ですが、これは、9章10節、15章33節にも出てくる「箴言」全体を貫く標語、或は主題のようなものと言えます。また、「箴言」以外でも、「詩篇」111篇10節、「ヨブ記」28章28節にも出てきます。ただ、このみことばにある『恐れる』というのは、戦々恐々として、びくびくと怯えるという意味ではないですよね。新改訳聖書は、「恐怖」の「恐れる」という漢字を使っていますが、それは本来、「畏敬の念」という言葉にある、「かしこみ畏れ敬う」という意味だと思います。ユダヤ人は、
モーセの十戒にある『主の名をみだりに口にしてはならない』
という戒めを厳格に守ろうとして、『主』(ヤハウェ・聖四文字)という神の名前(神名)を声に出して読まなくなってしまいましたが、元々、この名前は、すべての存在の根源という意味から来ており、この神の支えなくしては私たちの世界は存在しえないということを意味しています。ですから、その主を正しく畏れ敬うことこそ、私たち人間が知識や知恵を得るための大前提であり、出発点と言えるんですね。つまり、「箴言」で言われている知識、知恵とは、すべてのものの造り主である神との正しい関係に始まり、そこに中心があるということです。本当に「知恵のある者」とは、主こそすべてのものの根源であるということを悟って、その中で自分に関わるすべての人や被造物との関係を正しく位置づけられる人、ということになるでしょう。
<結論>
そして、そのように考えると、私たちが何よりも知らなければならないことというのは、私たちが立派なクリスチャンになるための秘訣のようなものではありませんし、まして、私たちが死んだ後、天国に行くためのノウハウのようなものでもないということが分かります。「マタイの福音書」19章に、一人の金持ちの青年がイエス様のところに来て、「先生。永遠のいのちを得るためには、どんな良いことをすればよいのでしょうか」と尋ねる話があります。イエス様は「なぜ、良いことについて、わたしに尋ねるのですか。良い方はおひとりです」と答えられました。それは、私たちがもっともっと知らなければならないこと。それも、頭の中だけの知識としてではなく、体験的に知らなければならないことは、良いことではなくて、良い方、主ご自身なんだよ、とおっしゃったんだと思うのです。
最後に、「マタイの福音書」6章の山上の垂訓にあるイエス様のみことばをお読みして、今朝の説教を閉じたいと思います。
『6:26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
6:27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
6:28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
6:29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
6:30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。』
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大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。
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