過ぎ越される神

大阪でのコロナ感染者急増のため、政府から「蔓延防止等重点措置」の適用が発令されました(期限:5月5日まで)。私たちの教会では、防止対策を徹底のうえで対面礼拝を継続する方針を取っておりましたが、感染状況を考慮し、しばらくの間対面での礼拝は中止し、オンライン礼拝として動画配信します。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用いただき、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。

メッセージ

<出エジプト記 12章1~20節>
メッセージ:牧師:砂山 智

開会聖句

わがたましいよ 主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。

<詩編:103篇2節>

メッセージ内容


メッセージ動画公開:4/18 AM 10:55

メッセージ原稿を公開しました。 


<序論>  

・先週に続いて「出エジプト記」からです。神はイスラエル人の嘆きを聞き、彼らとの契約を思い起こされます。そして、ミディアンの地に逃げていたモーセを召し、出エジプトという大事業を命じられるのです。そのモーセの召命の場面は3~6章に記されていますが、彼は何度も尻込みするんですね。しかし、神は何度も何度もモーセを励まし、雄弁な兄のアロンを助け手として立ててくださいます。そして、7章から、いよいよファラオとの対決が始まるんですが、エジプトに下された十の災いです。最初の災いは、ナイル川の水が血に変わるという災い。そして、最後の災いは、ファラオの息子も含めエジプト人のすべての長子が死ぬという、最悪の災いでした。

<本論>
1、イエス様の十字架の予型

この最後に下された恐ろしい災いは、イスラエルの民にとってエジプトからの解放(救い)の時となり、その時以降「過越(すぎこし)」と呼ばれています。

『「この月をあなたがたの月の始まりとし、これをあなたがたの年の最初の月とせよ』(出エ12:2)。

私たち日本人にとっても「正月」というのは特別ですが、イスラエル人にとっての「正月」は、この「過越」の出来事と関係しているわけです。いわゆる「ユダヤ暦」では、ニサン(古代ではアビブ)と呼ばれていますが、今の私たちの暦では3~4月の頃になります。その月の15~21日の7日間、ユダヤ人は「過越祭(ペサハ)」を行い、お祝いをするのです。
そして、この祭りの起源には、私たちクリスチャンにとっても大切な意味があります。それは、イエス様の十字架と復活の「予型」(旧約聖書における数々の出来事が、新約聖書におけるイエス・キリストおよび教会の予兆・前兆して解釈される)と考えられているからです。

『あなたがたの羊は、傷のない一歳の雄でなければならない。それを子羊かやぎのうちから取らなければならない』(同12:5)。
この時にささげられるいけにえの羊は、傷のない子羊でなければならない。それは、体に全く欠陥のない羊という意味ですが、「ヨハネの福音書」には、バプテスマのヨハネがイエス様を指して『見よ、世の罪を取り除く神の子羊』(ヨハネ1:29)

と言ったということが記されています。全く傷のない、罪のないお方が、あの十字架の上で、神の子羊、いけにえとなって、すべてを献げてくださったんですね。

『あなたがたは、この月の十四日まで、それをよく見守る。そしてイスラエルの会衆の集会全体は夕暮れにそれを屠り、その血を取り、羊を食べる家々の二本の門柱と鴨居に塗らなければならない』(同12:6,7)。

この『夕暮れ』というのは、ユダヤの伝統では、「日が傾きかけたころから日没まで」という意味になります。また、ユダヤの歴史家であったヨセフォスによって、ユダヤでは午後3時ごろに子羊を屠るのが一般的な慣習であったと伝えられています。福音書には、イエス様が十字架の上で死なれたのは午後3時ごろであったと記されています。つまり、この過越の出来事で、屠られた子羊の血を塗ったイスラエル人の家を神の裁きが過ぎ越したということは、イエス様の十字架の血によって私たちの罪に対する神の裁きが過ぎ越した(赦された)ことの予型であったわけです。

<結論>

そして、この「過越」を、イスラエルの人たちがいつまでも覚えておくために神が取られた方法というのが、独特の食事をするということでした。とてもユニークな方法だな、と私はいつも思わされるんですが、

『そして、その夜、その肉を食べる。それを火で焼いて、種なしパンと苦菜を添えて食べなければならない。生のままで、または、水に入れて煮て食べてはならない。その頭も足も内臓も火で焼かなければならない。それを朝まで残してはならない。朝まで残ったものは燃やさなければならない。あなたがたは、次のようにしてそれを食べなければならない。腰の帯を固く締め、足に履き物をはき、手に杖を持って、急いで食べる。これは主への過越のいけにえである』(出エ12:8~11)。

肉を生のままで食べてはならないというのは、所謂、あたるからということではなくて、「創世記」9章4節にあるように、生肉に含まれる血には命が宿っていると考えられていたからです。また、苦菜というのは、「チシャ(レタス)」などの野菜類のことですが、それは、エジプトで味わった彼らの苦難を象徴していると言われています。そして、種なしパン。この種というのは、所謂「イースト菌」のことです。今でも、世界中のユダヤ教徒たちは、「過越祭」で、この種なしパンを食べるのです。アメリカなどには「コシェルマーケット(ユダヤ教の食物規定を守った食料品店)」というのがあって、そこで種なしパンはいつでも手に入るそうですが、それは茶色いクラッカーのようなもので、「世界一不味いクラッカー」という不名誉な別名で呼ばれているそうです。
私たち日本人は、お正月には、皆で「御馳走」をいただくのが常識ですが、ユダヤでは「世界で一番不味いクラッカー」を食べるのが常識、民族の伝統なんですね。それは、種(イースト菌)を入れるとパンが腐りやすくなるので、保存のためということもあったみたいですが、先程、お読みしたように、実際、エジプトを脱出する時、イスラエルの民は余りにも急いでいたので、パン種を入れる余裕さえなかったということを忘れないためなんですね。そして、このパン種は、私たち人間の内側にある「罪」というものを象徴しているとも言われています。イエス様は弟子たちに、

『パリサイ人やサドカイ人たちのパン種に、くれぐれも用心しなさい』(マタイ16:6)

と言われました。パン種はパンを美味しくしてくれるものではあるんですが、それと同時に腐りやすくさせてしまう。そのように、罪が私たちの心全体を支配し、腐らせることのないように、と警鐘を鳴らされたんですね。
考えてみれば、このように、ある象徴的な食べ物を食べることを通して、大切なことを忘れないように伝承してゆくという方法は、実に理にかなった方法と言えるのではないでしょうか。私たちが行う聖餐式にも同じことが言えると思います。今は、残念ながら、コロナの為にパンと杯をいただくことはできませんが、たとえそれが心の中であったとしても、聖餐式でパンと杯をいただく時、私たちは主の十字架を深く心に覚え、古い契約ではなく新しい契約の民とされた喜びを味わい、主の恵みの業をほめたたえる者とされるのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF95KB)

新聖歌

開会祈祷後:440番、メッセージ後:28番

聖書交読

詩編 67篇 1~7節

2021年教会行事

大阪でのコロナ感染の急拡大を受け、週日の集会は、しばらくの間、お休みとさせていただきます。

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