体調がすぐれない方、不安な方は、ご自宅で礼拝をおささげしましょう。当ホームページに掲載のメッセージ原稿や、YouTube動画をご活用ください。
メッセージ
<ルカの福音書 24章28~35節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
二人は話し合った。「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明かしてくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか。」
<ルカの福音書 24章32節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:4/4 PM 2:22
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「イースター」おめでとうございます!「ルカの福音書」からずっと話してきましたが、今日で最終回となります。
1、夕暮れに向かって 13節を見ると、この二人の弟子はエルサレムから六十スタディオン(約11Km)余り離れたエマオという村に向かっていた、とあります。このエマオ村の場所については、今なお考古学上の議論があるようですが、私が持っている「バイブルアトラス」という地図では、エルサレムの西にあるアマウスという町がエマオとされていました。ということは、この二人の弟子は、エルサレムから西に向かって歩いていたことになるわけですが、29節の彼らのことばにもあるように、日は傾き、二人の目には西日(夕陽)が正面からまともに当たっていたと思われます。だから二人は、自分たちとともに歩いておられる方がイエス様だと分からなかったのだろう、とある本に書かれていました。「なるほど!」と思ったんですが、彼らがイエス様と気づかなかった理由は、実際にはそれだけはなかったように思えます。まぁ、彼らが夕暮れに向かって歩んでいたということ自体、多分に象徴的なんですが、二人の目がさえぎられていたのは、
17節に「暗い顔をして立ち止まった」
とあるように、彼らの頭の中が失望と困惑とで一杯になっていて、周りのことが一切、見えなくなっていたからではないかと思います。そんな二人に、復活されたイエス様は、いつの間にか近づいて来られて、ともに歩き始められた。同伴者となってくださったのです。
2、聞き続けよ。だが悟るな
この場面は、見方によると、とてもユーモアを感じさせる場面でもあります。
17節の「歩きながら語り合っているその話は何のことですか」
という質問からは、イエス様の茶目っ気たっぷりな表情が浮かんでくるような気がします。ストーリーテラーとしてのルカの優れ才能を感じます。そして、二人のうちの一人、クレオパという人が答えるのですが、彼は、ちょっとムッとしたのでしょうか、相手の無知を小ばかにしたように「あなただけがご存じないのですか」と話し始めます。その内容は、自分たちはどれだけイエス様に期待していたかということ(「私たちは、この方こそイスラエルを解放する方だ、と望みをかけていました」)。そして、それが全くの失望に終わったということでした。22節以降を見ると、二人は、墓まで行った女性たちから、イエス様のからだが墓には見当たらなかったということ。御使いがイエス様は生きておられると告げたということは聞いていたみたいなんですが、そんな知らせも、彼らの心には何の喜びももたらさなかったようです。それは、
16節にあったように「二人の目はさえぎられて」
いたからですね。よく「恋は盲目」と言いますが、「絶望は盲目」とも言えるのではないでしょうか。そんな彼らに、復活の主は、「ああ、愚かな者たち。心が鈍くて、預言者たちの言ったことすべてを信じられない者たち」と言い、次のように言われました。
『キリストは必ずそのような苦しみを受け、それから、その栄光に入るはずだったのではありませんか』(ルカ24:26)。
旧約の「イザヤ書」に「頑迷預言」と呼ばれる預言があります。イエス様も引用されましたが。
『「行って、この民に告げよ。『聞き続けよ。だが悟るな。見続けよ。だが知るな』と。この民の心を肥え鈍らせ、その耳を遠くし、その目を固く閉ざせ。彼らがその目で見ることも、耳で聞くことも、心で悟ることも、立ち返って癒されることもないように。」』(イザヤ6:9b~10)。
<結論>
しかし、その後には続きがあって、
『しかし、切り倒されたテレビンや樫の木のように、それらの間に切り株が残る。この切り株こそ、聖なる裔』(イザヤ6:13b)。
残った切り株から「聖なる裔」が生まれるという希望が預言されていました。イエス様は、まさに、この切り株のようになった二人の心に新芽を芽生えさせるために、みことばから語り続けてくださったのです。
実際にイエス様はどのように説き明かしてくださったのか?みことばを語る者のはしくれとして、とてもとても興味のあるところなんですが、ただ、それは話の内容がどうだというよりも、夕暮れに向かって歩んで行く中、イエス様がともに歩んでくださり、傍らから静かに語りかけてくださる。それは、私たちの人生の同伴者であるイエス様の姿そのものだなぁ、と深く思わされる場面です。『モーセやすべての預言者から始めて、ご自分について聖書全体に書いてあることを彼らに説き明かされた』(ルカ24:27)
二人は目的の村に近づき、もっと先まで行きそうなイエス様に「一緒にお泊りください」と強く勧めます。イエス様は彼らとともに食卓に着くと、パンを取って神をほめたたえ、裂いて彼らに渡された。すると彼らの目が開かれ、イエス様だと分かった、とルカは記しています。この時、二人は心地よい疲れに包まれ、気がつくとお腹もペコペコだったのではないでしょうか。二人は今まで歩んできた道を振り返って、「道々お話しくださる間、私たちに聖書を説き明してくださる間、私たちの心は内で燃えていたではないか」と話し合ったとあります。そこには、絶望に目をふさがれて暗い顔をした二人の姿はもうありませんでした。私たちも、まだまだ忍耐が必要なことも多いですし、決して強い者ではありません。けれども、復活の主は、今日も私たちの人生の同伴者となってくださり、パンを裂き、ともに食卓を囲んでくださるのです。今週も主との交わりに心を燃やされて歩んで行きましょう。
特別讃美
T.N姉 ピアノ・オルガン演奏
「一羽のすすめに」
「ドロローサ」
「あなたに」
新聖歌
メッセージ後:125番
2021年教会行事
4月7日(水) オリーブ・いきいき百歳体操
#53-2758
One comment to this article
mb-senri_web
on 2021年4月4日 at 2:39 PM -
今回のメッセージ原稿&動画のページには、本日の聖書箇所を表現した2枚の聖画を紹介しています。
画像の上でクリックすると、作品について詳細を紹介するWebページに移動できますので、ぜひご利用ください。(by:Web管理人あおっき~)