新しく生まれなければ

新型コロナウイルス感染拡大が続き、1月14日から大阪府を対象地域とした緊急事態宣言が発出されました。これに伴って、1月24日(日曜)から2月28日(日曜)までの間、教会に集まっての礼拝を休止します。
当ホームページに掲載のメッセージ原稿やYoutube動画を活用いただき、それぞれのご自宅で礼拝をお捧げください。

メッセージ

<ルカの福音書 16章1~13節>
メッセージ:信徒:K

開会聖句

「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」

<ヨハネの福音書 10章10節後半>

メッセージ内容

Youtube動画

今週の礼拝メッセージ動画配信はありません。


 

メッセージ原稿を公開しました。 

<はじめに>  
ハンモックでくつろぐ猫
・今日の主人公はニコデモです。昔昔、ある宣教師がここから説教したところ、聞いていた人たちがすごく感動したそうです。宣教師は「ニコデモ救われる」と言ったのですが、日本人には「猫でも救われる」と聞こえて、「キリスト教は猫でも救ってくださるらしい。それなら、うちの玉ちゃんもミーちゃんも。」ということで、なんとありがたい教えかと喜んだからです。微笑ましい笑い話ですが、この「○○でも救われる」ということばは、ニコデモにとっては皮肉なことばです。なぜなら、彼にとって神の国に入る資格のある人間は、「○○こそ」であって、「○○でも」ではなかったからです。この誇り高いイスラエルの教師に、イエスさまは「新しく生まれなければ」ということばを投げかけました。ニコデモは悩みます。どういう意味なのでしょうか?

<本論>
Ⅰ.新しく生まれるとは、天から下って来た人の子イエスを信じることです。

彼はどんな人だったでしょう。1~10節を読みますと、パリサイ人、ユダヤの議員、老いている、イスラエルの教師とあります。わかりやすく言うなら、資格も経験も豊富な、ユダヤ人社会で尊敬されている人物です。 そのニコデモが夜にイエスさまをこっそり訪ねます。「こっそり」とは私のおまけの表現ですが、そう考える理由はニコデモの恥と恐れの感情にあります。 「自分のようなもの(エリートの指導者)が地方出身の無名の若者に質問に行くなんて恥ずかしい。」「そんな格好悪いところを誰かに見られたら恥ずかしい。」という恥の感情。もう一つは、すでにイエスさまはユダヤ人指導者たちの反感を買っていましたので、「彼らにイエスの賛同者と思われたくない。」という恐れの感情です。

2章後半には、イエスさまが過越の祭にエルサレムに上ってこられ、神殿でユダヤ人たちと議論をしたこと、人々の間でしるしを行なわれたことが書かれていますが、そんな昼間の出来事を見て、彼の心を捉えたのは、「イエスとは誰だ?」ということでした。 そのことが頭から離れず、考えに考えた末、こう結論づけました。

「彼は神のもとから遣わされた教師だ―神がともにおられなければあのようなしるしはできない。」(2節)

パリサイ人は律法を厳格に守り、「自分たちこそ」神の国に入るのにふさわしいと考えていました。しかし、ニコデモは最近不安になっていたのです。仲間たちの話によると、少し前にバプテスマのヨハネと言う預言者が現れ、仲間たちに「アブラハムの子孫など石ころからでも起こせる。」と言って、悔い改めのバプテスマを迫ったというのです(マタイ3:7~9)。 「自分の今までの生き方で、本当に神の国に入れるのだろうか?」 そんな心の不安を抱えて、ニコデモはイエスさまを訪問します。

イエスさまは、悩めるニコデモの心を見透かしているかのように、

3節「まことに、まことに、あなたに言います。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」

と言いました。イエスさまからの直球勝負です。

「神の国を見る」(3節)

「神の国に入る」(5節)

と同じ意味ですが、「新しく生まれなければ」という不可解なことばにニコデモは面くらい、精一杯おかしな返事をします。

4節「人は、老いていながら、どうやって生まれることができますか。もう一度、母の胎に入って生まれることなどできるでしょうか。」

イエスさまちょっと意地が悪いじゃないですか。いえいえ、そんなことはありません。 3,5,11節に「まことにまことに」が3度繰り返されていますが、一個人の会話でこれだけ繰り返してこのことばを使われた例は今までありません。イエスさまは心底ニコデモを神の国に招きたいのです。それではどうして、「新しく生まれなければ」というニコデモにとって悩ましい表現をしたのでしょうか。

それは、当時の社会では、ニコデモのようなエリートは、神の国は自分たちの肉の力や誇り(律法や儀式を守る、血筋)で獲得するものだと考えていたからです。ならば、ニコデモこそ、十分な資格の持ち主です。しかしイエスさまは、神の国に入るのに、そんなものは全く無駄で、むしろそんな誇りは邪魔だということをわからせたいのです。

6節a「肉によって生まれた者は肉です」

のように。 反対に、無力な赤ん坊がお母さんによって生まれてくるように、神さまによって新しく生まれた者が、神の国に入ることができるということを伝えたいのです。6節b「御霊によって生まれた者は霊です」のように。 ニコデモは「イエスとは誰だ?」と思ってやって来ました。イエスさまは、会話を通して、自分は天から下って来た人の子である(13節)ことと、そのイエスさまを信じて新しく生まれるなら、誰でも神の国に入ることができるということを、彼に教えたのです。

Ⅱ.新しく生まれた人は、人との関係(つながり)を大切に生きます。

今日のイエスさまの説明にはもう一カ所、わかりにくい表現があります。

8節の「風は思いのままに吹きます。その音を聞いても、それがどこから来てどこへ行くのか分かりません。御霊によって生まれた者もみな、それと同じです」

風に漂うたんぽぽの綿毛

HG-FotografieによるPixabayからの画像


という箇所です。 風そのものは目にみえないように、私たちが御霊によって(神によって)生まれたことは、残念ながら目で確かめることはできません。 でも風の存在は、風が吹いたあと、木々が揺れ、葉が舞い散る様子でわかります。そのように、御霊によって生まれたことにも、目に見える変化が起きてくると言うのです。 それは、御霊によって生まれた者の生き方の変化です。 この世界に溢れていて、人気がある生き方は、達成志向とか、上昇志向とか、自己実現もそうですね。確かに、そのような努力のおかげで、文明や科学は発展し、私たちは大いにその恩恵を受けています。しかし、もう一つ、新しく生まれた者にふさわしい生き方があると言うのです。

今日の開会聖句ヨハネ10:10b(P202)を読みましょう。

「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。」

MikarapaによるPixabayからの画像


よくご存知の羊飼いと羊のたとえですが、新改訳2017では小さな変化がありました。「羊」→「羊たち」というふうに全面書き換えられていました。以前の訳ですと、「羊飼いと羊」「神さまと私」という、一対一のイメージが濃かったのですが、今度は「神さまと群れ(共同体)」というイメージに変わりました。 教会に属する私たちは、互いに兄弟姉妹と呼び合う神の家族であることをよくわかっていますが、新しい訳は、今更ながらに、神と私の関係も大切だけど、神の家族という人間同士の関係も大切ですよと、強調しているように思いました。 もう一つ付け加えると、10:16では「この囲いに属さない他の羊たち」のことも言っておられますから、神の家族以外の人間関係も大切です。 神によって生まれた者に現れてくる生き方とは、関係重視、教会用語で言えば、交わり重視の生き方なのです。

<結論>

最後に、なぜ神さまは交わりを大切にされるのでしょうか。 開会聖句に

「…羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得る(豊かであるー新改訳脚注)ためです。」

とあります。 神さまが、私たち一人一人が得るようにと願っておられるのは、「豊かないのち」なのです。 それは、孤立し、閉じられたいのちではないのです。 それは、交わりという恵みによって与えられるのです。 自分の存在全体で外に発信したものを、他者が受け止めるという、人間同士の交わり、互いの心を通わせることから生まれてくるものなのです。

今は物理的に距離をあけることが必要なので、多くの人の日常生活は、限られた範囲での人間関係しか持てない状況です。 でも、与えられたそのところで、神さまのみこころを生きることはできます。 自分の今の限られた関係をより丁寧に生きること、会えない人々のために祈ること、又、想像力を働かせて、もっと離れている人々(新聞やニュースで耳にする)の困難を思いやることもできます。 関心を持つことは、交わりの一歩なのですから。

メッセージ内容のダウンロード(PDF120KB)

新聖歌

番号の指定はありません。

聖書交読

省略します。

2021年教会行事

緊急事態宣言発出期間(1月14日から2月28日)の行事は休止します。

#53-2753

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