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メッセージ
<ルカの福音書 16章1~13節>
メッセージ:牧師:砂山 智
開会聖句
どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」
<ルカの福音書 16章13節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ動画公開:2/20 PM 22:55
メッセージ原稿を公開しました。
<序論>
・「ルカの福音書」9章以降のエルサレムへの旅の道中では、比較的、奇跡の記事は少なく、その代わりに「たとえ」が多く語られます。特に今日のテキストの一つ前の15章から有名なたとえが立て続けに出てきます。失われた一匹の羊のたとえ、失われた銀貨のたとえ、放蕩息子のたとえ。そして、今日の16章へと続くんですが、だいたい福音書のたとえの中でも、ルカだけに出てくるたとえは解釈が難しいものが多いと言われています。今日のたとえは、その代表的なものの一つではないかと思うんですが、今朝は、この不思議なたとえ、「不正な管理人のたとえ」を通して、皆さんと一緒にイエス様のみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、パレスチナにおける不在地主
今日のたとえに出てくる管理人がしでかしたことは、今で言えば業務上横領や背任罪に当たると思うんですが、そのような犯罪のニュースは、私たちもたびたび耳にするところです。ただ、当時の人々、イエス様の話を聞いていた人たちは、このたとえをどのように聞いていたのでしょうか?少し、今の私たちとは違う印象を持ったかもしれないなと思わされました。それは、当時のパレスチナの社会の状況が、今の私たちの社会とは少し違うからなんですが、もう随分前になりますが、「ゴッドファーザー」という映画がありました。「マフィア」という犯罪組織(ファミリー)の内幕を描いた映画で、「アカデミー賞」も受賞しましたが、その「マフィア」が生まれたのはイタリアのシチリア島と言われています。シチリア島では昔から外国勢力(不在地主)による支配の歴史が繰り返され、そのため島民たちはとても苦しんだそうです。その支配に抵抗するため、現地の農地管理人たちが秘密結社のような組織を作ったことが始まりとなり、それがやがて「マフィア」という犯罪組織に発展していったということを聞いたことがあります。そして、イエス様の時代のパレスチナにも、同じような不在地主と管理人という関係が多く見られたみたいなんです。実際、他のたとえにもそのような関係が前提となっているものがいくつもあります。それらのたとえを聞いてい
た人たちの中には、不在地主による支配に抵抗する人たち、或いは反感を抱く人たちも、かなりいたのではないでしょうか。ですから、今日のたとえも、当時のユダヤ人にとっては、よりリアルな話であったと思われます。
ただ、そうは言いましても、やっぱり、8節前半にある、
『主人は、不正な管理人が賢く行動したのをほめた』
ということばは、何か釈然としないというか、なぜイエス様はそんなことを言われたのだろう?と不思議に思ってしまいます。
2、イエス様の皮肉・ブラックジョーク
私たちが使っている「新改訳聖書」は、このことばを、たとえの中の主人が語ったことばとして訳していますが、実は別の訳もあるんです。それは、1~7節までの箇所で『主人』と訳されていることばはすべて、原典のギリシア語では実際には「彼」という人称代名詞が使われているのに、8節前半で、初めて「主人、或は主」を意味するギリシア語(キュリオス)が出てくるからなんです。ですから、このたとえは、1~7節までがたとえの本文(主人のことば)で、8節前半以降はイエス様自身のことばだと解釈することもできるんです。どちらが正しいのか?私には分かりませんが、それがいずれであったとしても、私は、このことばには、イエス様一流の皮肉・ブラックジョークが込められているように感じました。それは、この後の14節に、
『金銭を好むパリサイ人たちは、これらすべてを聞いて、イエスをあざ笑っていた』
とあって、イエス様はこのことばを、彼らへの皮肉として言われたのではないかと思ったからです。そしてもちろん、イエス様がほめられたのは、この管理人がしでかした不正自体ではないと思います。イエス様がほめられたのは、その賢いやり方だと思うんですが、それでは、イエス様は、彼のやり方のどんなところが賢いとほめられたのでしょうか?
3、不正の富
8節後半から、もう一度ご覧ください。
『この世の子らは、自分と同じ時代の人々の扱いについては、光の子らよりも賢いのである。わたしはあなたがたに言います。不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうすれば、富がなくなったとき、彼らがあなたがたを永遠の住まいに迎えてくれます』(ルカ13:8b~9)。
ここで『不正の富』ということばが出てきます。これは、直接的には、このたとえの管理人のように、文字通り不正な行いによって貯めた富という意味なのでしょうが、12節のことばなどを読むと、もっと広い意味で、「この世の富」と解釈することもできるのではないかと思います。つまり、私たちがこの世において神様から委ねられている「生命」や「時間」、「健康」や「能力」、そして「お金」など。それらのものを、あなたはどのように、何のために使っていますか、とイエス様は問いかけておられるのではないかと思うのです。この管理人は主人に自分の不正が発覚し、これはこのまま隠し通すことはできない、いつか主人に弁明しなければならない時が来る、と悟った時から、彼なりに必死に方策を考え、それを実行に移しました。それと同じように、あなたがたもいつか神の前に立たなければならない時が来る。その時のために、あなたはどれほど真剣に考え備えをしているのか。イエス様はそのように言われたのではないでしょうか。もちろん、その時には、先週のメッセージでもお話ししたように、イエス様が私たちのことを執り成してくださると信じていますが、そうであれば尚更、私たちはそのイエス様にお応えするため、より真剣に生きなければならないでしょう。
そして、続く10節のことばなんですが、
『最も小さなことに忠実な人は、大きなことにも忠実であり、最も小さなことに不忠実な人は、大きなことにも不忠実です』(同13:10)。
イエス様は、「すべての中で、どれが第一の戒めですか」と尋ねる律法学者に対して、第一の戒めを告げられた後、第二の戒めとして「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」と言われました。「全人類を自分自身のように愛しなさい」とは言われませんでした。もちろん、旧約聖書にそのように書かれてあったからなんですが、あなたの隣人というと、何か全人類と比べるととても小さなことのように思えます。しかし、実際には本当に難しいことです。愛するというのは抽象的なスローガンのようなものではなく、具体的なことなんだよ、とイエス様は言われたんですね。
<結論>
そして、今日の開会聖句、13節のみことばです。
『どんなしもべも二人の主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛することになるか、一方を重んじて他方を軽んじることになります。あなたがたは、神と富とに仕えることはできません。」』(ルカ13:13)。
この『富』と訳されているギリシア語「マモーナス」は、アラム語「マモン」がギリシア語化したもので、やがて人格化され、神と同格とみなされ、人の心を支配するものとなりました。私たちにとって、主人はもちろん神だけです。富(お金)は、神からお預かりした大切なものではありますが、私たちの主人ではありません。言うならば、私たちが主人で、お金は私たちのしもべでなければならないのです。しかし、この世には、お金が主人で、自分がお金のしもべ(奴隷)のような生き方している人がどれほど多くいるでしょうか。自分はどうだろう?大丈夫だろうか?と思わされます。
イギリスのバプテスト派の牧師で著名な説教者であったスポルジョンは、「天にまで携えていけないもののためにあまり熱心になるな」と言ったそうですが、最後に「Ⅰコリント」13章13節のみことばをお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。
『こういうわけで、いつまでも残るのは信仰と希望と愛、これら三つです。その中で一番すぐれているのは愛(神の愛)です』(Ⅰコリ13:13)。
新聖歌
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聖書交読
省略します。
2021年教会行事
緊急事態宣言発出期間(1月14日から2月28日)の行事は休止します。
#53-2752
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