神の御霊の住まわれる所 [家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<歴代誌 第2 7章11~22節>
牧師:砂山 智

開会聖句

あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。

<コリント人への手紙 第1 3章16節>

メッセージ内容

Youtube動画

令和2年11月1日礼拝の様子

今回の動画掲載は都合によりお休みですが、音声データを掲載します。

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。

 <序論>  

・本書は「歴代誌第一」とともに、元々は一つの書物であったと言われています。また、原典のヘブル語聖書では「日々の出来事」という名前で呼ばれていましたが、ギリシア語訳旧約聖書(七十人訳聖書)ができた時に「残された事柄(省略されてきた記録)」という名前に変更されたそうです。それは「歴代誌」が「サムエル記」「列王記」と同じ時代の歴史を扱っている(重複している)にもかかわらず、それらには含まれていない多くの事柄を記録しているからなんです(逆に、触れられていない事柄もあります)。ちなみに、日本語の「歴代誌」という呼び名は、それらのこととは全く別の理由で、イスラエルの代々の王の歴史が記されているということからつけられたということです。
そして、「歴代誌第二」についてですが、本書の内容は二つに大別することができます。1~9章までは神殿建設者としてのソロモン王が、10~36章までは古代イスラエル王国が南北に分裂した後の南ユダの歴代の王たちが描かれています。
今日の主人公はソロモン王ですが、彼はあのダビデ王の子どもで、イスラエルの王たちの中でもとりわけ有名な王の一人です。このソロモン王について、イエス様も「マタイの福音書」の山上の垂訓の中で言及しておられます。

『なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした』(マタイ6:28,29)。

このおことばにあるように、古代イスラエル王国はソロモン王の時代に栄華を極めた、つまり全盛期を迎えました。今日は、そのソロモンが行った畢生の大事業、神殿建設を通して、皆さんと共にみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、畢生の大事業

今日の説教題もそうだったんですが、日本語って本当に難しいですよね。今、「畢生の大事業」と言いましたけれども、皆さん、「畢生(ひっせい)」という言葉、ご存じでしょうか?辞書で調べましたら、「一生を終わるまでの間」「一生涯」「終生」とありました。ソロモン王にとって、神殿建設は、まさに、その生涯を賭けた大事業でした。神は、ソロモンの父ダビデに、既にそのことを命じておられましたが、ダビデ自身が神殿を建設することはお許しにはなりませんでした。その理由は「Ⅰ歴代誌」22章に書かれています。

『ダビデはその子ソロモンを呼び、イスラエルの神、主のために宮を建てるように命じた。ダビデはソロモンに言った。「わが子よ、私は、わが神、主の御名のために宮を建てる志を持ち続けてきた。しかし、私に次のような主のことばがあった。『あなたは多くの血を流し、大きな戦いをしてきた。あなたがわたしの名のために家を建ててはならない。わたしの前に多くの血を地に流してきたからである。見よ、あなたに一人の男の子が生まれる。彼は穏やかな人となり、わたしは周りのすべての敵から守って彼に安息を与える。彼の名がソロモンと呼ばれるのはそのためである。彼の世に、わたしはイスラエルに平和と平穏を与える。彼がわたしの名のために家を建てる。彼はわたしの子となり、わたしは彼の父となる。わたしは彼の王座をイスラエルの上にとこしえに堅く立てる。』』(Ⅰ歴代22:6~10)。

脚注に、ソロモンとはヘブル語で「シェロモ」。「平和」の意の派生語と説明がありますが、ソロモンの名前の由来はそこから来ていたんですね。

2、主の宮と王宮の完成

ソロモンがイスラエルの王となったのは紀元前961年頃と言われていますが、最初の3年間は神殿建設の準備のための期間であったようです。そして、即位して4年目、いよいよ神殿建設に取り掛かります。

『ソロモンは、エルサレムのモリヤの山で主の宮の建築を始めた。そこは、主が父ダビデにご自分を現され、ダビデが準備していた場所で、エブス人オルナンの打ち場があったところである。ソロモンが建築を始めたのは、その治世の第四年、第二の月の二日であった』(Ⅱ歴代3:1,2)。

モリヤの山というのは、かつてアブラハムが息子イサクを献げようとした場所です。そして、今、お読みした中に出てきたダビデも、人口調査という罪を犯した時、祭壇を築いて神の赦しを願った場所でもありました。そのような場所が神殿建設のために選ばれ、工事は順調に進みます。それは父ダビデの準備のおかげということもあったと思いますが、やっぱりソロモン自身の素晴らしい能力によるものだったと思います。彼は、王に即位する時、神から「あなたに何を与えようか。願え」と言われて、民をさばくため(治めるため)の知恵と知識をくださいと願ったと、「Ⅱ歴代誌」1章に書かれています。その知恵と知識とが、この時も大いに役に立ったのでしょう。また、父の代から友好関係にあったツロの王ヒラムからの支援も大きかったようです。ヒラムはフェニキヤ人の王でしたが、レバノン杉など、多くの素晴らしい建材を提供してソロモンを助けます。ただ、それらはもちろん商売でもあったので、後にイスラエルは莫大な財政負担に苦しみ、王国分裂の大きな要因にもなるのですが。

『こうして、ソロモンが主の宮のためにしたすべての工事が完了した。ソロモンは父ダビデが聖別した物、すなわち、銀、金、各種の用具類を運び入れ、神の宮の宝物倉に納めた』(同5:1)。

この建設に要した期間は7年間であったと伝えられています。そして、工事完了を祝う盛大な式典(献堂式)が行われたことが、その後の2節から7章10節まで記されています。しかし、今日の箇所、11節以降の出来事は、どうやらその直後のことではなかったみたいです。それはどうしてかと言いますと、

11節に『こうしてソロモンは、主の宮と王宮を建て終え』

と書かれてあるからなんです。実は、ソロモンは、神殿が完成した後、自分の宮殿建設に取り掛かったようで、それに13年ほどの歳月を要しているんです。神殿建設の期間は7年間でしたので、約倍の期間をかけて自分の宮殿を造ったことになります。そして、その大きさも、神殿の倍ほどあったそうです。このことから、ソロモンの心には、もうすでに神を第一としない、そのような思いが芽生えていたのだ、と解釈する方もおられます。一方で、ソロモンに好意的な解釈もあるんですが、果たしてどうだったのでしょうか?神様は、すべての工事が終わったその夜、ソロモンに現れ、ご自身の思いを告げられました。

3、諸行無常

今、エルサレムのソロモンの神殿があった場所には、イスラム教の施設「岩のドーム」などが建っています。その西側に「嘆きの壁」という昔の神殿の遺跡があって、テレビなんかで頭にキッパという小さな帽子をかぶったユダヤ人が熱心に祈っている姿が映し出されたりすることがありますので、皆さんもご覧になったことがあるかもしれません。ただ、あの壁も、実はソロモンが建てた神殿の遺跡ではないんです。ずっと後代の、クリスマス物語に登場するヘロデ大王が大規模に神殿を修復した際の外壁の跡なんです。昔、「キングソロモンの秘宝」という冒険映画がありましたが、ソロモンの神殿というのは、それはそれは壮麗で、この世のものとは思えないほど見事なものであったと思いますが、完成してから400年弱で、あの「バビロン捕囚」と呼ばれる出来事によって跡形もなく、徹底的に破壊されてしまったのです。
イエス様は、弟子の一人が、当時、エルサレムにあった神殿の立派さに「先生、ご覧ください。なんとすばらしい石、なんとすばらしい建物でしょう」と感嘆の声を挙げた時、

「この大きな建物を見ているのですか。ここで、どの石も崩されずに、ほかの石の上に残ることはありません」(マルコ13:2)

と言われました。それは直接的には、40年と少し後の紀元70年に起こったユダヤ戦争によって神殿が破壊されてしまうことの預言であったわけですが、それと同時に、私たちが、この地上のものに目を奪われ、それがいかにも頼もしく思えてくることへの警告でもあったと思います。教会の建物もそうですけれども、それがどれだけ立派で見事なものであっても、そこに神のご臨在がなければ、神の御霊が住まわれなければ、それはただの建物に過ぎないということを思わされます。

<結論>

今日の開会聖句は新約聖書にあるパウロのことばです。コリント教会は以前にもお話ししたように、問題だらけの教会でした。そして、当時は、もちろん、今のような教会建物(礼拝堂)はなく、恐らく「家の教会」で礼拝(愛餐会)が行われていたと思われます。しかしパウロは、そんな人たちに向かって、否、そんな人たちであったからこそ、『あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか』と言ったのではないかと思います。それは、神の御霊は何か特別な建物の中に住まわれるのではない。あなたがた一人一人こそ、神の宮であり、神殿なんだよ、ということですね。皆さんもよくご存じのように、今年の春からのコロナ騒動で教会での集会も大きな制約を受けることになりましたが、その一方で、そのことをきっかけとして、インターネットを活用しての礼拝など、新しいことも始まりました。
今週の木曜日に、ある姉妹が、教会をきれいに掃除してくださったんですが、私たちには、教会建物を大切に維持・管理していくという責任があると思います。ただ、それと同時に、建物に固執することはないと思うんです。そして、ここでパウロが言いたかったことも、教会の建物のことではありませんでした。21節に『ですから、誰も人間を誇ってはいけません』とあるように、あなたがた自身がどれほど素晴らしい人間かということが問題なのではない。そうではなくて、たとえあなたがたがどれほどつまらない人間、罪深い人間であったとしても、今や神の御霊があなたがた一人一人の中に確かに住まわれているんだ。だから、23節にあるように『あなたがたはキリストのもの、キリストは神のもの』。つまり、すべてのものは、究極的には神のものであり、神から出ているんだ、ということだと思います。ですから、私たちは、自分自身の足らなさを思って嘆いてみたり、或いは逆に、愚かな自分を隠して誇ってみたりする必要はないんですね。私たち一人一人は神の御霊の住まわれる所なのです。

メッセージ内容のダウンロード(PDF118KB)

新聖歌

開会祈祷後:18番、メッセージ後:99番

聖書交読

詩編 47篇1~9節

2020年教会行事


11月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

#52-2735

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