キリストにある苦難と慰め[家庭礼拝対応版]

「緊急事態宣言」が解除されたことから、5月31日(日)から、感染拡大予防に配慮したうえで礼拝を再開しています。
高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<コリント人への手紙 第2 1章3~11節>
牧師:砂山 智

開会聖句

私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれているからです。

<コリント人への手紙 第2 1章5節>

メッセージ内容

Youtube動画

メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。

 <序論>  

・今年の6月に「コリント人への手紙第一」からお話ししました。今日の「コリント人への手紙第二」も、第一の手紙と同じく、パウロがコリント教会に宛てて書いた手紙です。コリント教会はパウロが第二回目の伝道旅行の際に1年6か月の間滞在し、心血を注いで伝道した結果生まれた教会です(使徒18章)。ただ、コリントを去ってしばらくして悪い知らせが届きます。それは、コリントの教会で「私はパウロにつく」「私はアポロに」というような派閥争いから始まって、性的な不品行の問題、教会員同士による裁判ざた等々、本当に信じられないようなたくさんの問題が起こっているという知らせでした。それでパウロは手紙を書くわけですが、実は、その手紙は、第一の手紙と第二の手紙の二通だけではなかったみたいなんです。時間の関係で説明は端折りますが、第一の手紙の前に一通、そして第二の手紙の前にも一通、少なくとも計4通の手紙をパウロはコリント教会に書き送っているようです(Ⅰコリ5:9)(Ⅱコリ2:3~4b)。ただ、その二通は、今日では「幻の手紙」と言うか、失われてしまっているんですが。
そして、特に今日の「コリント人への手紙第二」についてですが、この手紙には、他のパウロの手紙と比較して、いくつかの点で特徴的なことがあります。それは、パウロが、この手紙の中で、自分自身のことについて多く語っているということ。また、喜んだり、悲しんだり、怒ってみたり、少々、感情の起伏が激しいように思える箇所があるということです。ですので、ある人たちは、この手紙は元々、何通かの手紙として書かれたもので、それを後から、誰かが一通の手紙としてまとめたんだろうと考えます(それら複数の手紙の一つが「幻の手紙」?)。その真偽のほどは分かりませんが、実は、この手紙が書かれた背景の一つとして、当時のコリント教会にパウロの使徒職に対して強い疑いを抱く人たちがいたという事情があったみたいなんですね。パウロは、そのような人たちに対して自分の使徒職の正当性を弁明するわけですが、その中で、どうしても自伝的なことや、時には、少し感情的で過激とも思えるようなことばが出てきたのではないかと思われます。ただ、それゆえに、この手紙にはパウロの個性や感情というものが非常によく表れており、彼の神学の核心とも言えるようなことばが数多くちりばめられています。
今週と来週は、この「コリント人への手紙第二」を通して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。

<本論>
1、最後の希望

『私たちの主イエス・キリストの父である神、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神がほめたたえられますように』(Ⅱコリ1:3)。

ある方は、この手紙の特色(主題)は、慰めの神ということである、と書いておられました。かつて、パウロが心血を注いで開拓したコリント教会は、以前より少しはましになったとはいえ、未だに多くの問題を抱えており、さらには、自分の使徒職の正当性にまで疑いの眼差しを向ける人さえ出てきた。私たちは、何でもないと言うか、自分とは余り関係のない人から反対されても、それほど気にならないかもしれません。しかし、自分が本当に誠心誠意、真心を尽くして接してきたと思っている相手から背かれ反対されると、どうしても赦すことができないというか、その辛さ悲しさをどこに持って行ったらよいのか、そんな気持ちになるのではないでしょうか。パウロは、そのどこにもやりようのない辛さ、悲しさの中で、あわれみ深い父、あらゆる慰めに満ちた神と出会ったのです。この3~7節までの短い間に、「慰め」や「慰める」という名詞、或いは動詞が10回も出てきます。そして、これらのことばは皆、「苦難」「苦しみ」ということばと共にセットで語られています。

『神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます』(同1:4)。

私たちは、本当に悲しんでいる人、苦しんでいる人、落胆している人を目の前にした時、何と声をかければよいのか、まさに「おかけすることばも見つかりません」というような思いになってしまうことがよくあります。そんな私たちですが、それでももし、少しでもお慰めすることできるとするならば、それはこのみことばにあるように、自分たちが、私自身が神から受ける慰めによって、ということではないでしょうか。私たち自身がまず、神から慰めをいただかなければ、誰も慰めることなんかできないですよね。それは裏を返せば、私たちが誰に望みを置いているのか、何に最後の希望を見出そうとするのか、ということを問われていることでもあると思います。その点、パウロははっきりしています。「ピリピ人への手紙」に次のようなみことばがあります。

『私も、キリストとその復活の力を知り、キリストの苦難にもあずかって、キリストの死と同じ状態になり、何とかして死者の中からの復活に達したいのです』(ピリ3:10,11)。

パウロの信仰の原点は、あのダマスコ途上で復活のキリストと出会ったという、その一点にありました。ですから、彼の最後の希望も、ひとえにキリストの復活、復活の力にあったんです。それは、今朝、ここに集う私たちも同じではないでしょうか。パウロのように劇的な出会いではなかったかもしれませんが、私たちも皆、様々な形で復活のキリストとお会いしたからこそ、ここに招かれているんですね。今朝、神は私たちに、「あなたは何に(誰に)最後の希望を置くのか?」と問いかけておられるのではないでしょうか。

2、神がなさったこと

『兄弟たち。アジアで起こった私たちの苦難について、あなたがたに知らずにいてほしくありません。私たちは、非常に激しい、耐えられないほどの圧迫を受け、生きる望みさえ失うほどでした。実際、私たちは死刑の宣告を受けた思いでした。それは、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです』(Ⅱコリ1:8,9)。

この「アジアで起こった私たちの災難」とあるのは、恐らくエペソでの経験のことだろうと言われていますが、詳しいことは分かっていません。と言いますか、パウロ自身、他の手紙でもそうですが、そのような自分が経験した迫害については余り詳しく語っていないんです(この手紙の11章で少し語っていますが)。よく、戦争など、本当に悲惨な経験をした人は、その悲惨な経験について余り語りたがらないということを聞きます。もしかしたらパウロもそうだったのかもしれません。ただ、彼がここでコリントの人たちに一番伝えたかったこと、どうしても知ってほしかったことは、自分がどれほど苦しんだか、大変だったかということではなく、9節の最後にあるように、「それ(その苦難)は、私たちが自分自身に頼らず、死者をよみがえらせてくださる神に頼る者となるためだったのです」ということではなかったか、と思うんです。つまり、神がこの苦難を通して自分にしてくださったこと。自分がではなく、神がなさったことだったんですね。

<結論>

そして、今日の開会聖句ですが、やっぱり苦難と慰めとがセットになっているんですが、苦難があふれているように、慰めもあふれている。パウロのことばには逆説的なものが多いのですが、この手紙は特にそうです。それは、今、コリント教会で起こっている問題の根底に、この世的と言うか、神にではなく人間の力により頼もうとする信仰があったからではないか思うんです。私たちにはどうしても、「力(強さ)」や「即効性」「分かり易さ」というものを求めてしまいやすいところがあるのと思いますが、パウロがここで強調していることはそうではないように思えます。例えば、少し後の4章にある有名なみことば。

『私たちは、この宝を土の器の中に入れています。それは、この測り知れない力が神のものであって、私たちから出たものではないことが明らかになるためです。私たちは四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方に暮れますが、行き詰まることはありません。迫害されますが、見捨てられることはありません。倒されますが、滅びません。私たちは、いつもイエスの死を身に帯びています。それはまた、イエスのいのちが私たちの身に現れるためです』(Ⅱコリ4:7~10)。

これらも逆説的ですが、少し後の6章8節後半からのみことばなんかもそうです。そして、もっと言えば、イエス様の山上の垂訓の最初にある『心の貧しい者は幸いです』『悲しむ者は幸いです』という教えもそうですよね。
「私たちにキリストの苦難があふれているように、キリストによって私たちの慰めもあふれている」という、この「慰め」は、薄っぺらい、簡単に得られるけれども簡単に失われてしまうような慰めではなく、イエス様があの十字架の苦難を通らされた後、復活されたように、私たちも少しでもキリストの苦難を通らされることによって初めて神が与えてくださるものなのかな、と思わされました。

メッセージ内容のダウンロード(PDF92KB)

新聖歌

開会祈祷後:191番、メッセージ後:222番

聖書交読

詩編 42篇1~11節

2020年教会行事


10月14日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。

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