高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。
メッセージ
<創世記 50章15~26節>
牧師:砂山 智
開会聖句
あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。
<創世記 50章20節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ原稿は、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>
・「創世記」ヨセフ物語からの三回目・最終回です。前回は、ヨセフが、飢饉に苦しむ父ヤコブの一族をエジプトに避難させ、ファラオに謁見させた場面からお話ししました。それから17年後、ヤコブはエジプトの地で亡くなります。
『ヤコブはエジプトの地で十七年生きた。ヤコブが生きた年月は百四十七年であった』(創世47:28)。
アブラハムは百七十五年、イサクは百八十年でしたので、この三人の中ではヤコブが一番短命であったわけですが、しかし、ある意味、彼が一番波乱万丈の生涯を送ったのではないかと思います。ただ、最後のエジプトでの十七年は、聖書は殆ど何も記していませんが、恐らく、ヨセフら十二人の息子たちに見守られて幸せだったのではないかと思います。50章を見ると、彼は死んだ後、エジプトの風習に従ってミイラにされたみたいです。ヨセフが死んだ時もそうでしたが、「郷に入れば郷に従え」ということでしょう。そしてヨセフは、ヤコブが遺言した通りに、先祖が眠る墓、カナンの地のマクペラの畑地の洞穴に父を葬ります。それはかつて、アブラハムが、ヒッタイト人エフロンから、私有の墓地とするために、畑地とともに買ったものでした。49章後半から50章前半にかけて「買い取った(買った)」ということばが三度も出てきます。つまり、強調しているわけですが、それは、23章で、アブラハムが墓地の代金として支払った銀四百シェケルが、やがてイスラエルがカナンの地に入ってその地を所有してゆくための手付金のようなものであったということを意味しています。ですから、ヨセフがヤコブの埋葬について、その遺言の通りに忠実に行ったというのは、単に父の思いを酌んでとか、故郷に錦を飾らせてやりたいというような人間的な思いだけではなくて、アブラハム、イサク、ヤコブと受け継がれてきた神の約束を改めて確認し、後に続く世代の者たちにその約束を継承させていくという重要な意味を持っていたわけです。
そして、先程、読んでいただいた箇所の前半、21節までですが、これは、そのすぐ後の出来事だと思われます。
1、兄たちの恐れ
ヨセフの兄弟たちは、父ヤコブが死んだのを見たとき、ヨセフが自分たちに仕返しするのではないかと非常に恐れたんです。ある方は、「なんでやねん?!兄たちは、あの45章にあったヨセフとの再会の場面で、過去の一切のことは水に流しましょう。あなたがたが私に行った悪事も、すべて神様のご計画だったのですと言われて、ともに抱き合って感動の涙を流したんちゃうの?」と思われるかもしれません。人間の心って本当に複雑だなぁ、と思うと同時に、和解するって本当に難しいなぁ、と思わされます。
もう、ずいぶん前の映画ですが、「ゴッドファーザー・パートⅡ」という映画で、父ヴィトー・コルレオーネの後を継いでマフィアのボスになったマイケルが、自分を裏切った兄フレドを、自分の子飼いの殺し屋に命じて殺させる場面がありました。非常に印象的な場面ですが、あれも確か、お母さんが亡くなった後に殺させたと思います。「半沢直樹」ではありませんが、「やられたら、やり返す!千倍返しだ!!」。この時の兄たちには、「あの時は父がいたからヨセフも赦してくれたけど、いなくなったらそうは問屋が卸さない。ヤコブはきっと自分たちに仕返ししようと思ってるに違いない」という強い恐れがあったんですね。そして、もしかしたらなんですが、私たちも時々、神様との関係の中で、そんな思いが甦ってくるというか、裁きへの恐れに心が支配されてしまうような時があるかも、と思わされました。今日は聖餐式でしたが、いつもお読みする「聖餐式への招き」の中にありました。「主よ、二千年前の十字架の御愛に忠実に真剣にお応えすることができますように」と。もちろん、罪は犯さない方がいいわけですが、私たちは、あの「タラントのたとえ」や「ミナのたとえ」に出てくる不忠実なしもべのようにではなく、たとえ失敗したとしても、真心から神に従おう、お応えしようとしていく時に、神はその姿勢を喜んでくださるのではないでしょうか。ヨセフの兄たちのような恐怖の「恐れ」からではなくて、「畏れ(おそれかしこむ)」思いから神に従う者でありたいと願います。
2、父の遺言
さて、今日のヨセフの兄たちですが、彼らは、なんとかヨセフから完全な赦しの確証を得たい、自分たちの身の安全の保証が欲しいと考え、父ヤコブの遺言を持ち出してきます。彼らも必死に考えたんでしょう。それは17節にある通りですが、ただ、これが本当にヤコブのことばだったのか、それとも兄たちの作り話だったのかは分かりません。何しろ「死人に口なし」ですし、聖書にもそのような記事は一切ありませんので。そんな彼らのことばを聞いたヨセフの反応はどうだったでしょうか?17節の最後を見ると
『ヨセフは彼らのことばを聞いて泣いた』
とあります。なぜヨセフは泣いたのでしょうか?その理由は書かれていません。ただ私は、この時ヨセフは、何とも言えないような情けない気持ちというか、悲しい思いがこみ上げてきて、思わず涙を流したんじゃないかと思わされました。兄たちとはもうとっくに和解できたと思っていたのに、実はそうではなかったんだという。兄たちはヨセフの前にひれ伏して、「私たちはあなたの奴隷です」とまで申し出たと記されています。そんな兄たちに向かってヨセフは言います。
『ヨセフは言った。「恐れることはありません。どうして、私が神の代わりになることができるでしょうか。あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように、多くの人が生かされるためだったのです。ですから、もう恐れることはありません。私は、あなたがたも、あなたがたの子どもたちも養いましょう。」このように、ヨセフは彼らを安心させ、優しく語りかけた』(創世50:19~21)。
3、まさかの坂
以前にもお話ししたと思いますが、人生には三つの坂があるとよく言われます。一つは「上り坂」、二つ目は「下り坂」、そして、三つ目は「まさか」です。どんな人の人生にも、この「まさか」という坂を上らなければならない、或は、下らなければならない時があるのではないでしょうか。それは事実であり、決して私たちが避けて通ることのできない現実だと思います。しかし、それと同時に、私たちは、もう一つの事実、真実を忘れてはならないと思います。それは、今日のヨセフのことばにあったように、その「まさか」を良いことのための計らいとしてくださる神がおられる、ということです。
新約聖書「へブル人への手紙」11章6節には次のようなみことばがあります。
『信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです』(へブル11:6)。
今日の説教題は少し日本語がおかしいんじゃないか、と思われた方もおられるかもしれませんが、「天を怨まず 人を咎めず」ではなく、「天を怨みず 人を咎めず」で正しんですね。これは、元々、「論語」にあることばだそうですが、私は新島襄という人の臨終のことばとして知りました。新島襄は、同志社大学の前身、同志社英学校を創立した人物ですが、大学を設立するために日本中を奔走する中、病を得て、志半ばにして46歳という若さで亡くなってしまいます。明治23年のことですが、その臨終の際に、奥さんの八重さんと教え子の徳富蘇峰に口述筆記させた遺言の中にこのことばがあったそうです。
私は、今日のヨセフのことばを読んで、この題がピッタリだなと思わされたんですが、もちろんヨセフは、功成り名を遂げたからそのように言えるのであって、もし、不遇のままで終っていたとしたら、とてもとても、そんなことは・・・と言われる方もおられるかもしれません。それは正直、分かりませんけれども、このヨセフ物語からの説教を閉じるにあたって、私の心に残っている一つのことばをお話ししたいと思っています。それは、「夢見る者」という呼び名なんです。ヨセフはかつて兄たちにそのように呼ばれていたんです
ね。その夢は、彼の人生に大きな影響を与えました。時には、不幸をもたらすようなこともありました。しかし彼は、「夢見る者」であり続けたんです。それはヨセフが、目の前の現実だけに目を留めるのではなく、いつも未来への希望を持ち、神のなさる業に期待し続けるという、その姿を表しているように私は感じました。私たちも、いくつになっても「夢見る者」であり続けたいですね。
新聖歌
開会祈祷後:7番、メッセージ後:171番
聖書交読
詩編 41篇1~13節
2020年教会行事
10月7日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。
#52-2731
Comments are closed