高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。
メッセージ
<創世記 44章18~45章1節>
牧師:砂山 智
開会聖句
神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています。
<ヨハネの手紙第1 4章21節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>
・「創世記」最後の部分である37章以降は「ヨセフ物語」と言ってもいいと思います。ヨセフはヤコブの十一番目の息子で、ヤコブが最も愛した妻ラケルから生まれました。35章の22節以降を見れば分かりますが、ヤコブには四人の妻がいて、今日の主人公とも言えるユダは、ラケルの姉レアから生まれた四番目の息子です。また、今日のユダのことばに「末の弟」とありましたが、それはヨセフと同じ母から生まれたベニヤミンのことです。
今日の44章までの経緯についてはご存じの方も多いと思います。実に波乱万丈と言いますか、聖書の物語の中でも一番面白いのが、この「ヨセフ物語」ではないでしょうか。最初に37章4節をご覧いただきたいと思います。
『ヨセフの兄たちは、父が兄弟たちのだれよりも彼を愛しているのを見て、彼を憎み、穏やかに話すことができなかった』(創世37:4)。
私には兄弟がいないので分かりませんが、兄弟の関係というのは時に険悪なものになってしまうことがあるんですね。そして、遂に悲劇が訪れます。そのきっかけは、ヨセフが見た二つの夢の話。一つは畑で兄たちが作った束が、もう一つは太陽と月と十一の星が自分を伏し拝むという夢でした。兄たちはヨセフからその夢の話を聞かされて、とうとう怒りを抑えることができなくなって、彼を殺そうと相談します。結局、ヨセフは今日の主人公ユダの提案で、通りがかったイシュマエル人に奴隷として売り飛ばされ、エジプトに連れて行かれることになるのです。その後の展開は時間の関係で省略させていただきますが、まさに「大逆転」。ヨセフは、最終的に、奴隷からエジプト王ファラオの宰相となり、絶大な富と権力とを手に入れるんですね。
それからしばらくして、エジプトやパレスチナ一帯を大飢饉が襲います。ヨセフは既に、ファラオが見た夢を解き明かしてそのことを知っていましたので、万全の備えをし、エジプトには食料の備蓄が豊富にありました。そのことを風の噂で聞いたヨセフの兄弟たちは、食料を分けてもらおうとエジプトまでやって来るのです。
1、ヨセフの計略
兄弟たちが来た時、ヨセフはすぐにそれが自分の兄弟だと気がついたんですが、彼らは全く気づいていませんでした。それはそうですよね。かつて自分たちが奴隷として売り飛ばしたあの弟が、エジプトのファラオにも等しい権威を持って、今、自分たちの前に座っているなんて、想像することさえできなかったと思います。それで、ヨセフはある計略を思いつきます。彼らを試そうとするんですね。本当だったらすぐに殺されても文句は言えないと思うんですが、ヨセフにも、やっぱり肉親の情が残っていたんでしょう。その計略とは、食糧を満載した袋のうち、末の弟ベニヤミンの袋にだけこっそりと自分の銀の杯を入れておくようにというものでした。何も知らない兄弟たちはそれらの袋を持って帰国の途に就きます。しかし、その途中で、ヨセフの家来たちが追いかけてきて、ベニヤミンの袋から杯を見つけ出すんです。彼らは驚きますが、どうしようもありません。泣く泣くヨセフの下に引き返します。少し前の15節からお読みします。
『ヨセフは言った。「おまえたちの、このしわざは何だ。私のような者は占いをするということを知らなかったのか。」(注:銀の杯は占いに使うものであったようです)ユダが答えた。「あなた様に何を申し上げられるでしょう。何の申し開きができるでしょう。何と言って弁解することができるでしょう。神がしもべどもの咎を暴かれたのです。今このとおり、私たちも、そして、その手に杯が見つかった者も、あなた様の奴隷になります。」ヨセフは言った。「そんなことをするなど、とんでもないことだ。その手に杯が見つかった者、その者が私の奴隷となるのだ。おまえたちは安心して父のもとへ帰るがよい。」』(創世44:15~17)。
実は、彼らのエジプト訪問はこれで二度目でした。最初の訪問の時には、ベニヤミンだけ連れてこなかったんです。それは、父ヤコブが反対したからなんですが、その際に、彼らはヨセフから、今度来る時には必ずベニヤミンも連れて来るようにと厳命されており、おまけに、その約束を守るようにと兄弟のシメオンまで人質に取られていたんです。それで今回は、ユダが何とか父を説得して、ベニヤミンも連れて来たんです。ヨセフはそのこともよく承知の上で、彼らがベニヤミンも見捨てて、自分たちさえ助かればいいやと帰ってしまうんじゃないかと、試したんですね。
2、このしもべを、あの子の代わりに
そんなヨセフに向かってユダは必死に訴えます。それが、今日、読んでいただいた箇所だったんですが、ある注解書には次のように書かれていました。「このユダの訴えは、男らしく、率直で感動的。また感情を抑え、無駄なことばを用いず、言うべきことは残らず言っている。ヨセフにスパイ扱いされたことなどには全く触れず、ことば使いにも細心の注意を払っている」。私も、読めば読むほど胸にグッとくるものがあるというか、本当にそのように感じました。特に最後の33節、34節。
『ですから、どうか今、このしもべを、あの子の代わりに、あなた様の奴隷としてとどめ、あの子を兄弟たちと一緒に帰らせてください。あの子が一緒でなくて、どうして私は父のところへ帰れるでしょう。父に起こるわざわいを見たくありません。」』
(創世44:33~34)。
かつて自分のことを妬み、奴隷として売ろうと提案したユダ。あのユダが、今、自ら進んで、腹違いの弟ベニヤミンの身代わりとして自分が奴隷になると申し出ている。その動機は、もちろん、弟ベニヤミンへの愛、そして、何よりも、父ヤコブへの愛だったのです。45章1節以降を読めば分かりますが、ヨセフは、ユダのこのことばに、「兄貴も変わったなぁ」と驚き、そして、どれほど嬉しく思ったでしょうか。
皆さんもよくご存じかと思いますが、このユダの子孫(ユダ族・ユダヤ人)から、後にダビデ王が生まれ、南ユダ王国の王たちが生まれ、そして、イエス・キリストがお生まれになりました。
私は今日のユダのことばを読んで、これはイエス様の十字架につながる象徴的なことばであるように感じました。イエス様は、私たち一人一人を愛し、そして、何よりも、父なる神様を愛して、あの十字架にかかって死んでくださったのです。
『神を愛する者は兄弟も愛すべきです。私たちはこの命令を神から受けています』(Ⅰヨハネ4:21)。
以前の訳では後半の「神から」ということばが「キリストから」となっていましたが、イエス様は
『わたしと父とは一つです』(ヨハネ10:30)
とおっしゃいましたから、どちらであっても同じことですね。新聖歌364番「わが主イエスよ ひたすら」には、「わが主イエスよ ひたすら 祈り求む 愛をば 増させ給え 主を愛する 愛をば 愛をば」とありますが、私たちも祈り求めたいと願います。主を愛する愛を。そして、兄弟を愛する愛を。
新聖歌
開会祈祷後:160番、メッセージ後:98番
聖書交読
詩編 38篇9~22節
2020年教会行事
9月16日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
7月1日(水)から感染予防対策を講じつつ、再開しました。
#52-2728
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