高齢の教会員、教会での礼拝に参加することが困難な教会員のために、先週の礼拝から、Youtubeによる動画配信を行っています。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。
メッセージ
<コリント人への手紙第1 6章 1~12節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです。
<コリント人への手紙第1 7章22節>
メッセージ内容
Youtube動画
メッセージ原稿は、礼拝前ですが、家庭礼拝用として事前公開します。
<序論>
「コリント人への手紙第一」からの二回目です。先週はコリント教会内にあった分裂・分派の問題について見ました。説教では1章からお話ししましたが、パウロはその問題に関連して4章の終わりまでを割いて書いています。そして、5章以降では、様々な不品行・不道徳の問題が取り上げられます。今日のテキストは、その中でも、特に信者同士の訴訟問題について書かれた箇所です。先週の分裂・分派の問題とも関連する問題と言えるかもしれません。パウロは、その詳しい内容までは書いていませんが、信者同士の争い事が訴訟にまで発展してしまった原因というのは、彼らの日常の事柄についてのことであったようです。そんな彼らに対して、パウロは厳しいことばで悔い改めを迫ります。
1、世界や御使いをさばく者
『聖徒たちが世界をさばくようになることを、あなたがたは知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるのに、あなたがたには、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。あなたがたは知らないのですか。私たちは御使いたちをさばくようになります。それなら、日常の事柄は言うまでもないではありませんか』(Ⅰコリント6:2,3)。
改めて読むと、何か壮大なスケールの話のようにも思えます。パウロは、あなたがたキリスト者には、世界をさばき、御使いをもさばく力と権威が与えられているのだ、と言っているのです。正直、「それは正論で言えばそうかもしれないけど…」と思ってしまいそうですが、確かに聖書はそのように語っています。以前にもお話ししましたが、私は、だいぶ前ですが、ある講演会に出席してそのことについて改めて気づかされたことがありました。それは、東日本大震災の翌年か翌々年のことだったと思いますが、塩屋の関西聖書神学校で行われた中澤啓介師の講演会です。中澤師は、「へブル人への手紙」2章6~13節から大変分かりやすく語ってくださいました。その内容については、以前の繰り返しになりますので、今日、お話しすることは控えますが、確かに、コリント教会の人たちのように、「自分は正しんだ!」と自分の正当性を主張し、相手を訴えたり、さばいたりするような時には、私たちもそうですが、パウロが言っているような視点(創造論)を忘れてしまっているのかもしれません。それは、「あなたがたには、神から、全被造物を管理するようにという尊い使命が与えられているのではないのか。人間はそのように創造されたと聖書は言っているではないか。それなのに、なぜ、そんな小さな事で…」ということですね。そしてもう一つ、私たちキリスト者が決して忘れてはならない大切な視点があります。それは、私たちにそのような尊い使命が与えられたのは、ただ、イエス様の十字架の血によって贖われた者であるから、ということです。パウロは、今日の「Ⅰコリント」6章20節で、次のように言っています。
『あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから、自分のからだをもって神の栄光を現しなさい』(同6:20)。
2、 正しくない者
さて、パウロは、今日の箇所で、教会の兄弟同士で訴え合うということの愚かさを厳しく戒めた後、さらに、より具体的に、正しくない者とはどのような者であるかということを列挙しています。
『あなたがたは知らないのですか。正しくない者は神の国を相続できません。思い違いをしてはいけません。淫らな行いをする者、偶像を拝む者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒におぼれる者、そしる者、奪い取る者はみな、神の国を相続することができません』(Ⅰコリント6:9,10)。
今、お読みした中には、2000年経った現在でも、「確かに正しくない者だ」と肯けるものもあると思います。しかし、その一方で、国や地域によっての違いはありますが、現代においては激しい議論の対象となっているようなことも含まれています。それは例えば「男色をする者」と訳されている「同性愛者」「LGBT」についてです。
このことについては、同じキリスト教会の中でも、また同じ教会に属するキリスト者の間でも、その見解や対応に大きな違いがあります。聖書に書かれてあることは、今から2000年以上前に、その当時の、ある特定の国や地域で暮らす人々に対して書かれたものです。ですから、まず、そのことを踏まえた上で解釈をする必要があります。そして、その上で、今の私たちにそれがどのように適用できるのかということになるのですが、そこで、それぞれの神学(価値観)の違いが影響してくるんですね。ですから、9,10節に列挙されているようなことは、もちろん正しくないことなんですが、それをそのまま単純に、全部現代に適用できるかというと、必ずしもそうとは言い切れないと思うのです。逆にそのように言い切ることができれば、楽なのかもしれませんが…。また、さらに言えば、パウロが、或いは、聖書が殆ど問題視していないことの中にも、現代においては明確に正しくないとされていることもあります。それは「社会悪」とも呼ばれるもので、例えば「奴隷(制)」です。今、アメリカやヨーロッパを中心として、人種差別反対を掲げて激しいデモ(暴動)が繰り広げられ、昔の奴隷商人たちの銅像を破壊するということが行われています。それは、一人の黒人男性の痛ましい死がきっかけになったんですが、「人種差別(レイシズム)」は、決して過去の問題ではない、今、現在も存在するおぞましい問題なんですね。しかし、聖書の時代、昔は、少なくとも社会の仕組み自体が、そのような奴隷制度を前提としていたと言うか、認めていたわけです。ですから、先週もお話ししたように、私たちが何よりも聖書から示されなければならないことは、そのような、時代と共に移り変わってゆく社会的・道徳的な善悪のことではないと思うのです。もちろん、それは、現代に残る社会悪は見過ごしてもよいということではありませんが、そのことを踏まえた上で、12節を見てみましょう。
『「すべてのことが私には許されている」と言いますが、すべてが益になるわけではありません。「すべてのことが私には許されている」と言いますが、私はどんなことにも支配されはしません』(同6:12)。
この『益になる』というのは、私たちにとって益になるということではなく、神がご覧になってということでしょう。私たち人間には、それが益になるのかどうか、時には判断が難しい場合もあると思います。そのような時には、少なくとも性急な判断で決めつけてしまうことなく、心から神に祈り求めたいですね。そして、この手紙の13章、「愛の章」を思い出したいです。愛がなければすべては空しいということを。
最後に、今日の開会聖句です。
『主にあって召された奴隷は、主に属する自由人であり、同じように自由人も、召された者はキリストに属する奴隷だからです』(Ⅰコリント7:22)。
この『自由人』ということばには※印がつけられ、下に「解放奴隷」と書かれています。古代ローマにおける「解放奴隷」とは、解放された奴隷自身のことではなく、その息子の世代を意味し、彼らは立派なローマ市民として扱われたそうです。そして、解放された後も、かつての主人の名前を名乗り、その多くは元主人と良好な関係を持ち続けたということです。ですから、当時の人々は、このことばを読めばピンときたのでしょうね。
私たちも、キリストにあって自由な者とされ、キリスト者(クリスティアノス)、つまり「キリストの奴隷」と呼ばれるようになった者たちです。現代に生きる私たちには、「奴隷」ということばはいただけないと言うか、強烈なマイナスイメージがあるかもしれませんが、どんな奉仕であっても、誰か他の人のためにするということではなく、主のためにするのだ、ということと受けとめ、今週も歩んで行ければと願います。
新聖歌
開会祈祷後:334番、メッセージ後:399番
聖書交読
詩編 25篇1~10節
2020年教会行事
6月17日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
いよいよ7月1日(水)から再開いたします!今しばらくお待ちください。
#52-2715
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