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メッセージ
<ハバクク書 3章 1~16節>
牧師:砂山 智 師
聖書箇所 ハバクク書 3章より抜粋(新改訳2017版より引用)
3:1 預言者ハバククの祈り。シグヨノテの調べにのせて。
3:2 主よ、私はあなたのうわさを聞きました。主よ、あなたのみわざを恐れています。この数年のうちに、それを繰り返してください。この数年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください。
3:3 神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。セラ その威光は天をおおい、その賛美は地に満ちている。
3:4 その輝きは光のよう。ひらめきが御手から上り、そこに御力が隠されている。
3:5 疫病はその前を行き、熱病がうしろに従う。
3:6 神が立ってご覧になると、地は揺るぎ、国々は震え上がる。とこしえの山は打ち砕かれ、永遠の丘は低くされる。しかし、その道筋は永遠だ。
3:7 私が見ると、クシャンの天幕は不法の下にあり、ミディアンの地の幕屋はわなないていた。
3:8 主よ、川に対して怒りを燃やされるのですか。川に対してあなたの怒りを、海に対して激しい憤りを。確かに、あなたは馬に、あなたの救いの戦車に乗っておられます。
3:9 あなたの弓は覆いを取り払われ、ことばの杖による誓いが果たされます。セラ あなたは地を裂き、いくつもの川とされます。
3:10 山々はあなたを見て震え、あふれる水が押し寄せます。深い淵は声を出して、その手を高く上げます。
3:11 太陽と月は、その住む所にとどまり、あなたの矢の光によって進みます。あなたのきらめく槍のひらめきによって。
3:12 あなたは、激しい憤りをもって地を行き巡り、怒りをもって国々を踏みつけられます。
3:13 あなたは御民を救うために、油注がれた者を救うために出て来られます。あなたは悪しき者の頭を打ち砕いて首までにし、彼の家の基をあらわにされます。セラ
3:14 あなたは杖で戦士たちの頭を突き刺されます。彼らは、苦しむ者をひそかに食い尽くすように、ほしいままに私を追い散らそうと荒れ狂います。
3:15 あなたは馬で海を、大水の泡立ちを踏みつけられます。
3:16 その音を聞いたとき、私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました。攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます。
開会聖句
しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。
<ハバクク書 3章18節>
メッセージ内容
<序論>
そこからさらに2000年という時を経た今を生きる私たちもまた、この「ハバクク書」を通して語られる主の御声に耳を傾けたいと思います。
1、悲しみの歌
新改訳聖書では、3章1節の『シグヨノテの調べ』ということばに※印がつけられており、脚注に※あるいは「悲しみの歌」と書かれています。先週、お話しした通り、ハバククは、祖国ユダがバビロンによって滅ぼされることが神のみこころであるということを知り、神に対して怒りと共に疑問をぶつけます。そんなハバククに向かって、神はご自身の奥義ともいうべきことを告げられました。それが2章4節。
『見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる』(ハバクク2:4)。
このみことばによってハバククは変えられ、神への怒りと不信感とは消え去り、畏敬の念と共に、何よりも神のみこころが行われることを祈る人へと変えられました。
そして、その後の2章後半では、高ぶる者たちに下される災いの宣告がなされます。ここでは、直接バビロンが名指しされてはいませんが、ユダへのさばきの後、バビロンもさばかれなければならないということが告げられます。ハバククはそのことを知り、少しは溜飲が下がる思いをしたかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、自分の同胞たちもまた、塗炭の苦しみを味わなければならないということを想った時、彼の心は深い悲しみに包まれたのではないでしょうか。表題とも言える「シグヨノテの調べ(悲しみの歌)にのせて」ということばに、ハバククのそんな思いが込められているように感じました。
3章2節をご覧ください。
『主よ、私はあなたのうわさを聞きました。主よ、あなたのみわざを恐れています。この数年のうちに、それを繰り返してください。この数年のうちに、それを示してください。激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください』(同3:2)。
ハバククは、神のみこころが速やかに行われることを祈ります。しかし、それと同時に、神の激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでください、と祈っています。私たちも、悲しい時、苦しい時、それが私たち人間にはどうすることもできない主のみこころであると、心のどこかで気づいていたとしても、どうしようもなく辛い時があります。そんな時には、このハバククのように祈りたいと思います。主よ、激しい怒りのうちにも、あわれみを忘れないでくださいと。
2、 静かに待ちます
そして、3章3節以降には、神がユダをさばくため、また、やがては、バビロンをもさばくために来られる、その情景が歌われています。
『神はテマンから、聖なる方はパランの山から来られる。セラ その威光は天をおおい、その賛美は地に満ちている』(ハバクク3:3)。
『テマンから』『パランの山から』とは、古の時代の出エジプトからカナンの地までの神の業を想起させる地名です。神の威厳は、あのモーセの時代と同じように、今も変わることなく、この全地に満ちているという宣言です。ここから15節まで、高ぶる者へのさばきの激しさ、厳粛さが歌われます。
そして、16節。
『その音を聞いたとき、私のはらわたはわななき、唇は震えました。腐れは私の骨の内に入り、足もとはぐらつきました。攻めて来る民に臨む苦しみの日を、私は静かに待ちます』(同3:16)。
ハバククの信仰は、今、神に対する疑いと恐れという大波を乗り越えて、ただ、みこころが行われる日を静かに待つという信仰へと変えられました。
同じ旧約聖書の「哀歌」に、次のような一節があります。
「哀歌」もまた、バビロン捕囚を背景として歌われたものです。日本の戦国時代に山中鹿介という武将は、「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に向かって祈ったそうですが、普通、私たちは、自ら進んで苦難に遭いたいとは願わないですよね。今日のハバククもそうだったと思います。しかし、彼は、避けようがない苦難の中にあって、神の救いを待とうと決心したのです。私たちは、苦しい時、眠れない時、「今、答えをください。今、私を癒してください」と神に祈りますが、それは時として、待つことができない信仰になっているように思えます。ある人は、「今の時代は、昔の聖書の時代のように、神が人間にお語りになることはない」と言います。しかし、もしかしたら、私たち人間の方が、昔のように神からの語りかけを聞くことができなくなった、つまり、みことばが語られるのを静かに待つことができなくなっただけなのかもしれません。この世のペースはどんどんと早くなり、すぐに結果を、すぐに答えをと、静かに待つことのできない時代になってきています。また、数え切れないほどのたくさんの情報が、四六時中、世界を駆け巡り、私たちの目や、耳や、心を虜にしようと狙っています。そんな時代の中で、みことばを静かに待つことの大切さを忘れずにいたいと願います。『主はいつくしみ深い。主に望みを置く者、主を求めるたましいに。主の救いを静まって待ち望むのは良い』(哀歌3:25~26)。
「ハバクク書」の最後は、主への賛美の歌で締めくくられます。
3章17節。
『いちじくの木は花を咲かせず、ぶどうの木には実りがなく、オリーブの木も実がなく、畑は食物を生み出さない。羊は囲いから絶え、牛は牛舎にいなくなる』(ハバクク3:17)。
これは、間もなくユダが経験する苦難を表現したことばだと思われますが、そのすぐ後で、ハバククは歌います。
『しかし、私は主にあって喜び踊り、わが救いの神にあって楽しもう。私の主、神は、私の力。私の足を雌鹿のようにし、私に高い所を歩ませる』(同3:18,19)。
私たちも歌いましょう!しかし、私たちも主にあって喜び踊り、私たちの救いの神にあって楽しもうと!
「ハバクク書」は涙で始まりましたが、賛美の歌で終りました。私たちの信仰の歩みもそのようにありたい、と切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:154番、メッセージ後:233番
聖書交読
詩編 22篇1~18節
2020年教会行事
5月27日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月31日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。
#52-2712
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