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メッセージ
<ハバクク書 2章 23篇1~4節>
牧師:砂山 智 師
聖書箇所 ハバクク書 2章より抜粋(新改訳2017版より引用)
2:1 私は、自分の物見のやぐらに立ち、砦にしかと立って見張り、私の訴えについて、主が私に何を語られるか、私がそれにどう応じるべきかを見よう。
2:2 主は私に答えられた。「幻を板の上に書き記して、確認せよ。これを読む者が急使として走るために。
2:3 この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
2:4 見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」
開会聖句
この幻は、定めの時について証言し、終わりについて告げ、偽ってはいない。もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない。
<ハバクク書 2章3節>
メッセージ内容
<序論>
今週と来週は「ハバクク書」からです。ハバククとは、「神に抱かれる者」という意味です。彼自身のことについては聖書にはほとんど何も記されていません。彼の預言は、バビロンによって祖国ユダが滅ぼされようとする時代に、神に忠実に生きようとする者が、なぜ不忠実な者によって苦しめられなければならないのか、という現実の疑問の上に立ってなされたものです。そんなハバククからの問いかけに対して、神は「正しい人はその信仰によって生きる」と答えられました。このことばは、後の時代にパウロが「ローマ人への手紙」1章17節で引用し、その手紙の主題ともしたことばです。
今日は、「神の正しさ 人の正しさ」と題して、皆さんと一緒にみことばに耳を傾けたいと願っています。
1、ハバククの訴え
旧約聖書には多くの預言者が登場しますが、その中でもハバククという預言者にはいくつかのユニークな点があります。それは、彼が預言者でありながら、自国(ユダ)の民にも、他国の民にも神のことばを語っておらず、神に向かってのみ語っているという点です。また、ハバククは、神からの使信を伝えるというよりも、繊細な自分の心を悩ます問題、つまり、神はなぜ、この世界の悪を見過ごしておられるのか。或いは、神はこの世界をどのように支配しておられるのか、という疑問を解決することに心を集中させているように見えます。
「ハバクク書」は3章までしかない短い書簡ですが、内容的には、ほぼ章ごとに区分することができます。第一の区分は、ユダの民を代表する預言者ハバククと神ご自身との対話です(1章1節~2章5節)。第二の区分は、悪を行う者に対する災いの預言です(2章6節~20節)。そして、第三の区分は、ハバククの詩篇とも呼ばれる神への祈りの歌です(3章1節~19節)。ですので、今日、取り上げたテキストは、第一の区分、ハバククと神との対話の最後の部分ということになります。
このハバククの神への訴えの背景にあったのは、既に申し上げました通り、「バビロン捕囚」という出来事です。1章には、神に対するハバククの悲痛な叫びが記されています。1章2節からご覧ください。
『いつまでですか、主よ。私が叫び求めているのに、あなたが聞いてくださらないのは。「暴虐だ」とあなたに叫んでいるのに、救ってくださらないのは。なぜ、あなたは私に不法を見させ、苦悩を眺めておられるのですか。暴行と暴虐が私のそばにあり、争い事があり、いさかいが起こっています。そのため、みおしえは麻痺し、さばきが全く行われていません。悪しき者が正しい者を取り囲んでいるからです。そのため、曲がったさばきが行われているのです』(ハバクク1:2~4)。
今、ハバククが必死に訴えているのは、神が沈黙しておられること、そして、あたかも傍観者のように、自分たちが苦しんでいる姿をただ黙って眺めておられることへの憤りです。国家存亡の危機に直面する中で、ユダの多く人々は自分のことだけしか考えなくなり、神のみおしえは軽んじられ、公正なさばきは行われず、腐敗と混乱とが国中を覆っていたのです。
2、 あなたの目は、あまりにきよくて
そんなハバククからの訴えに対して、神は驚くべきことを告げられます(5~11節)。それは、カルデア人、つまりバビロンを用いてユダをさばくことが、ご自身のみこころであるということです。これは、同時代に生きたエレミヤやエゼキエルもそうだったと思いますが、人間的に考えれば、否、自分もユダヤ人であるハバククにとっては、到底理解することができないようなことばだったのではないでしょうか。ハバククは再度、神に問いかけます。どうしても納得がいかなかったんですね。それは、神を恐れず堕落してしまったユダの民は、ある意味、さばかれて当然なのかもしれないけれども、たとえそうであったとしても、神はなぜ、ユダヤ人よりもはるかに邪悪で凶暴な、まして異教徒であるバビロンを用いてさばこうとされるのか。彼らは己のほしいままに振舞い、自らの欲望を満たすことしか考えていないじゃないか。このことは、ハバククにとって、何よりも理解しがたい、ショックなことであったようです。次のことばの中に、そんなハバククの苦悩が見え隠れしています。
『あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて、苦悩を見つめることができない
のでしょう。なぜ、裏切り者を眺めて、黙っておられるのですか。悪しき者が自分より正しい者を呑みこもうとしているときに』(ハバクク1:13)。
新改訳聖書には、最初の『あなたの目は、悪を見るにはあまりにきよくて』という箇所に※印がつけられ、脚注に、※直訳「目がきよすぎて悪が見えない方」とあります。私はこの直訳を読んで、これはハバククなりの神に対する精一杯の皮肉であったのかなと感じました。
そして、ハバククは、神からの答えを待ちます。
『私は、自分の物見のやぐらに立ち、砦にしかと立って見張り、私の訴えについて、主が私に何を語られるか、私がそれにどう応じるべきかを見よう』(同2:1)。
ハバククが実際に物見やぐらに昇ったかどうかは分かりませんが、神は一体なんと答えられるだろうか。今や遅しと、刮目して、神からの答えを待っている彼の姿が目に浮かんでくるようです。
そんなハバククに対する神からの答えは、次の2~4節に記されています。今日の開会聖句は、その中の一節ですが、神が言われたことは「お前は今のことだけを見ているけれども、わたしはそうではない。お前の願っている正義は一時的なものに過ぎないけれども、わたしの正義はそうではない。わたしの正義は必ず来る。だから、一喜一憂しないで、それを待て」ということではないかと思います。
そして、4節のみことば。
『見よ。彼の心はうぬぼれていて直ぐでない。しかし、正しい人はその信仰によって生きる。」』(ハバクク2:4)。
このみことばは、新約聖書の中で3回、引用されていますが、その中でも代表的なものが序論でご紹介した「ローマ人への手紙」1章17節です。
『福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』(ローマ1:17)。
この神の義は、神がお定めになった時、今から2000年前、イエス・キリストというお方が来られたことによって成就(完成)しました。ですから、ハバククが聞いた神の約束は既に果たされたのです。しかし、それと同時に私たちが忘れてはならないことは、私たちは「既に」と「未だ」の狭間の時代に生かされているということです。最終的な神の義の完成は、神ご自身の手に委ねられています。
今、日本だけでなく世界中で、新型コロナウイルス感染拡大を防止するための自粛から、どのようにして自粛を緩めてゆくのか、解除してゆくのかということが議論されています。いわゆる「出口戦略」ということですが、一方では、それに伴って、ウイルス感染が再び拡大するのではないかという懸念もあります。しかし、最近、私が思わされていることは、それ以上に懸念すべきことは私たち人間の心ではないかということです。皆さんは、「自粛警察」「正義マン」という言葉をお聞きになったことはあるでしょうか?感染した方々に対してもそうですが、医療や介護に従事しておられる方々。その他、私たちの生活を支えるために必要不可欠な仕事をしておられるエッセンシャルワーカーと呼ばれている方々。或いは、できるだけの予防対策を施し、生きていくためにやっとお店を再開しようと頑張っておられる方々。そのような方々に対する誹謗中傷が、今後、益々増えてくるのではないかと心配しています。神はハバククに
『見よ。彼の心はうぬぼれていて、直ぐでない』(ハバクク2:4a)
と言われました。今の時代にこそ、私たちには、本当の謙虚さ、神の前にある謙虚さが求められるのではないでしょうか。今週も、「もし遅くなっても、それを待て。必ず来る。遅れることはない」と言われる方を信じて、共に手を携えて歩んで行こうではありませんか。
新聖歌
開会祈祷後:342番、メッセージ後:374番
聖書交読
詩編 21篇1~13節
2020年教会行事
5月20日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月31日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。
#52-2711
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