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メッセージ
<詩編 23篇1~6節>
牧師:砂山 智 師
聖書箇所 詩編23篇(新改訳2017版より引用)
23:1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
23:2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
23:3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
23:4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
23:5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。
23:6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます。
開会聖句
まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも 主の家に住まいます。
<詩編 23篇6節>
メッセージ内容
<序論>
『天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います』(マタイ13:45~46)。
今朝は、「聖書的ステイホームの勧め」と題して、「詩篇」23篇に隠された、すばらしい真珠を皆さんとともに見つけたい、と願っています。
1、羊飼いと羊
聖書には「羊飼い」と「羊」が何度も出てきます。「創世記」4章3節には、アダムとエバの息子アベルが羊を飼う者となったと記されていますので、羊飼いという仕事は、兄カインの農業と並んで、人類最古の職業の一つと言うこともできると思います。「羊飼い」「牧者」などに関係するヘブル語「ラーアー(牧する)」には、「食べ物など必要なものを与える」「飼う」「育てる」「世話をする」「治める」というような意味があります。日本では、昔、テレビで人気のあったアニメ「アルプスの少女ハイジ」などの影響なのかもしれませんが、羊には、何か愛くるしくて大人しいイメージがあるかもしれません。また、青々とした草原でのんびりと草を食んでいるというイメージをお持ちの方もおられると思います。しかし、この詩篇で詠われているイスラエルにおける羊のイメージは少し違うんですね。実際の羊は、臆病で脆弱な動物なのだそうです。
2節に『いこいのみぎわに伴われます』
とありますが、羊は暑さに弱く、夏などは、水を飲まなければすぐに死んでしまのです。ですから、イスラエルのような渇いた土地では、餌になる牧草もそうですが、水場を見つけ出し、羊に水を与えるというのは、羊飼いにとって何よりも大切な仕事なのです。そして、実際の羊の第二の特徴は、迷いやすい。羊は目が悪くて方向感覚に乏しい動物だそうです。さらに、第三の特徴は、頑固で自分勝手。何か、自分とよく似ているなぁ、と思わされます。まず、臆病で脆弱。私の大好きなみことばの一つは、新約聖書の「テモテへの手紙第二」にある、
『神は私たちに、臆病の霊ではなく、力と愛と慎みの霊を与えてくださいました』(Ⅱテモテ1:7)
というみことばです。臆病で気の弱い私は、若い頃から今に至るまで、このみことばに何度も励まされ、立ち上がらせていただきました。そして、二番目の、迷いやすい。目が悪くて方向感覚に乏しいということですが、私も、たびたび、自分の優柔不断な性格が嫌になることがあります。昔の歌で恐縮ですが、美空ひばりの歌に「人生一路」というのがありました。「一度決めたら 二度とは変えぬ」。本当に、いつ聞いてもいい歌だなと思わされるのですが、私は、一度決めたことでも、それでよかったのか、と何度も考えてしまうんですね。さらに、そのくせ頑固で自分勝手。まさに、この私の姿だ!と思わずにはいられません。ついでにもう一つ、以前に介護の仕事をしていた時につくづく思わされたんですが、自分というのは何と意地悪な人間だなぁと。本当に何一つ良い所のない、そんな自分ですが、神さまは、「お前、ええかげんにせえよ!」と愛想を尽かされることなく、今まで導いてくださいました。今、千里教会で、こうして牧師としてご奉仕させてもらえるのも、神様の大きな憐れみと言う以外ありません。
2、 喜ばしい発見
さて、今日の「詩篇」23篇ですが、全体の主題は冒頭にある1節のみことばだと思います。そして、この1節の前半と後半との間に、あえて、ことばを挿入するなら、それは、(それゆえ)ということばではないでしょうか。
『主は私の羊飼い。(それゆえ)私は乏しいことがありません』(詩篇23:1)。
このことばは、2節以降のすべての文節にも挿入することができます。
『主は私を緑の牧場に伏させ』てくださる。(それゆえ)私は食べ物に事欠きません。
『主は私をいこいのみぎわに伴われます。』(それゆえ)私は安らぎを欠きません。
最初にご紹介したスポルジョンが創設した「パスターズ・カレッジ」という神学校出身の聖書学者J・シドロー・バクスターは、この「詩篇」23篇について、次のように解説しておられました。
「この詩篇のへブル語の文章には、「・・・である」という語はない。簡潔に、「主は私の羊飼い」と述べる。これは、喜ばしい発見をした時の感嘆として読まれるべきではないだろうか。ヘブル語では、この感嘆は「アドナイ・ロイー」である。そして、これは非常に重要である。旧約聖書において、「アドナイ・・・」という表現は7例ある」(旧新約聖書全解・J・シドロー・バクスター著)。
以下に、その7つの例をご紹介します。
- アドナイ・イルエ『アブラハムが目を上げて見ると、見よ、一匹の雄羊が角を藪に引っかけていた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の息子の代わりに、全焼のささげ物として献げた。アブラハムは、その場所の名をアドナイ・イルエと呼んだ。今日も、「主の山には備えがある』と言われている(創世記22:13,14)。
- アドナイ・ラファ『そして言われた。「もし、あなたの神、主の御声にあなたが確かに聞き従い、主の目にかなうことを行い、また、その命令に耳を傾け、その掟をことごとく守るなら、わたしがエジプトで下したような病気は何一つあなたの上に下さない。わたしは主、あなたを癒す者だからである』(出エジプト15:26)。
- アドナイ・シャロム『ギデオンはそこに主のために祭壇を築いて、これをアドナイ・シャロム(注:主は平安)と名づけた。これは今日まで、アビエゼル人のオフラに残っている』(士師6:24)
- アドナイ・ツィデケヌー『神の時代にユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。『主は私たちの義』。それが、彼の呼ばれる名である』(エレミヤ23:6)。
- アドナイ・シャマ『町の周囲は一万八千キュピト。この町の名は、その日から『主はそこにおられる』となる』(エゼキエル48:35)。
- アドナイ・ニシ『さて、アマレクが来て、レフィディムでイスラエルと戦った。~モーセは祭壇を築き、それをアドナイ・ニシ(注:主はわが旗)と呼び、』(出エジプト17:8~15)。
- アドナイ・ロイー『主は私の羊飼い』(詩篇23:1)。
そして、これら7つの「アドナイ・・・」という表現に示される神のすばらしさは、バクスター先生が言うように、喜ばしい発見として、今日の「詩篇」23篇の中に見事にちりばめられているのです。
- 「主の山には備えがある」→『私は乏しいことがありません』(詩篇23:1)。
- 「わたしは主。あなたを癒す者だからである」→『主は私のたましいを生き返らせ』(同23:3)。
- 「主は平安」→『(主は私を)いこいのみぎわに伴われます』(同23:2)。
- 「主は私たちの義」→『(主は)私を義の道に導かれます』(同23:3)。
- 「主はそこにおられる」→『私はわざわいを恐れません。あなたが ともにおられますから』(同23:4)。
- 「主はわが旗」→『私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます』(同23:5)。
- 「主は私の羊飼い」→『主は私の羊飼い』(同23:1)。
この「アドナイ(わが主)」は、ユダヤ人が、モーセ十戒の一つである
『あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない』(出エジプト20:7)
という戒を厳格に守るために神の名前(神聖四文字)の本来の読み方を封印し、母音をつけて読み替えてきたものです。そして、今日、皆さんとともに見てきましたように、この「アドナイ(わが主)」は他のことばと組み合わされて、私たちの神様はどのようなお方なのかということを表すことばとなりました。
「詩篇」23篇の最後は、とても美しい一節で締めくくられています。「詩篇」27篇4節とともに、大好きなみことばです。ただ、これは、いわゆる、天国の様子を描写したものではないと思います。それは、今、たとえ「死の陰の谷」を歩んでいたとしても、「主は私の羊飼い。それゆえ、私は乏しいことがありません」と歌う人々の魂の様子を描写したものでしょう。
『まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。私はいつまでも、主の家に住まいます』(詩篇23:6)。
私たちも「ステイホーム」。いつまでも、わが主の家に住まいましょう。
新聖歌
開会祈祷後:206番、メッセージ後:317番
聖書交読
詩編 20篇1~9節
2020年教会行事
5月13日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月31日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。
#52-2710
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