すべてのものは生きる [中止:家庭礼拝対応版]

新型コロナウイルス感染拡大により、政府から「緊急事態宣言」が発せられていることを受け、当教会も社会的責任を果たす意味で、5月3日(日)まで礼拝を休止します。
本ページ内容は家庭礼拝に対応しています。

メッセージ

<エゼキエル書 47章1~12節>
牧師:砂山 智 師

聖書箇所 エゼキエル書(新改訳2017版より引用)

47:1 彼は私を神殿の入り口に連れ戻した。見ると、水が神殿の敷居の下から東の方へと流れ出ていた。神殿が東に向いていたからである。その水は祭壇の南、神殿の右側の下から流れていた。
47:2 次に、彼は私を北の門から連れ出し、外を回らせ、東向きの外門に行かせた。見ると、水は右側から流れ出ていた。
47:3 その人は手に測り縄を持って東の方に出て行き、千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、それは足首まであった。
47:4 彼がさらに千キュビトを測り、私にその水を渡らせると、水は膝に達した。彼がさらに千キュビトを測り、私を渡らせると、水は腰に達した。
47:5 彼がさらに千キュビトを測ると、水かさが増して渡ることのできない川となった。川は泳げるほどになり、渡ることのできない川となった。
47:6 彼は私に「人の子よ、あなたはこれを見たか」と言って、私を川の岸に連れ帰った。
47:7 私が帰って来て見ると、川の両岸に非常に多くの木があった。
47:8 彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。
47:9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
47:10 漁師たちは、そのほとりに立つ。エン・ゲディからエン・エグライムまでが網を干す場所になる。そこの魚は大海の魚のように、種類が非常に多くなる。
47:11 しかし、その沢と沼は水が良くならず、塩を取るのに使われる。
47:12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。」

開会聖句

『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。』神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です。」

<マタイの福音書 22章32節>

メッセージ内容


<序論>  

The Visionary Ezekiel Temple plan drawn by the 19th century French architect and Bible scholar Charles Chipiez.

「エゼキエル書」の最後の部分(40章~)は新しい神殿についての預言(幻)です。その幻がエゼキエルに示されたのは、40章1節によると、第1回目の捕囚(紀元前597年)から数えて25年、エルサレムやソロモンの神殿が破壊されてから14年が経った頃でした。年代で言えば紀元前572年のことです。25年も経てば、バビロンで亡くなる人もいたでしょうし、祖国を知らない若者たちも増えてきたと思います。人々は、捕囚の民として、今、生きることに精一杯で、自分たちのアイデンティティを見失いかけていたかもしれません。そんな時、神は、エゼキエルを通して、彼らの霊的な回復の中心とも言うべき神殿の幻を見せられたのです。
今日は、「すべてのものが生きる」と題して、「エゼキエル書」からの最後のメッセージに耳を傾けたいと思います。

<本論>
1、主の栄光が戻る

今日のテキストの最初に出てくる『彼』とは、40章3~4節に登場する人のことです。

『主が私をそこに連れて行くと、そこに一人の人がいた。その姿は青銅でできているようであり、その手に麻のひもと測り竿を持って、門のところに立っていた。その人は私に話しかけられた。「人の子よ。あなたの目で見、耳で聞き、わたしがあなたに見せるすべてのことを心に留めよ。わたしがあなたを連れて来たのは、あなたにこれを見せるためだ。あなたが見ることをみな、イスラエルの家に告げよ。」』(エゼキエル40:3~4)。

この人は神が遣わされた御使いであったと思われますが、彼が持っていた麻のひもと測り竿は、新しい神殿の大きさを測るためのものでした。その後、42章の最後まで、新しい神殿の外側から内部に至るまでの詳細な大きさが記録されています。
そして、エゼキエルは、その新しい神殿に主の栄光が満ちるのを目撃します。

『彼は私を東向きの門に連れて行った。すると見よ、イスラエルの神の栄光が東の方から現れた。その音は大水のとどろきのようで、地はその栄光で輝いた。私が見た幻は、かつて主がこの町を滅ぼすために来たときに私が見た幻のようであり、またその幻は、かつて私がケバル川のほとりで見た幻のようでもあった。私はひれ伏した。主の栄光が東向きの門を通って神殿に入って来た。霊が私を引き上げ、私を内庭に連れて行った。なんと、主の栄光が神殿に満ちていた』(同43:1~5)。

昨年の礼拝で、「そのとき、ケルビムは飛び立った」という題でお話ししましたが、かつてエゼキエルは、テル・アビブの自宅でユダの長老たちと座っていた時、不思議な幻を見せられます。それは、あのエルサレム神殿から主の栄光がケルビム(天使)に乗って飛び立ってしまうという幻でした。その時、主の栄光は東の門から飛び立ちました(同10、11章)。けれども、今、主は、干からびた骨のようなイスラエルに、
新たな希望を見せてくださったのです。それは、あの時、神殿から飛び立った主の栄光が、同じ東向きの門から戻ってきて、神殿の中に満ちるという幻でした。
44章2節には次のような主のことばがあります。

『主は私に言われた。「この門は閉じたままにしておけ。開けてはならない。だれもここから入ってはならない。イスラエルの神、主がそこから入ったからだ。これは閉じたままにしておかなければならない』(同44:2)。

東向きの門は閉じたままにされました。つまり、新しい神殿に満ちた主の栄光は、二度と再び、そこから飛び立ってしまうことはないということです。

2、 永遠の神殿

このようにして示された希望のメッセージ(幻)は、この時から数十年後、現実のものとなります。ペルシアのクロス王によってバビロン捕囚の民は解放され、祖国に帰還し、神殿を再建するのです。しかし、もう、皆さんもお気づきのことかと思いますが、この希望のメッセージは、単に、バビロン捕囚からの解放だけを告げるものではありませんでした。それは、さらに未来の、終末論的なイスラエル回復の預言として理解されるべきものであったのです。
その意味で、「エゼキエル書」の預言は、新約聖書「ヨハネの黙示録」に啓示されている終末預言とつながっていると思います。

『私は、この都の中に神殿を見なかった。全能の神である主と子羊が、都の神殿だからである』(黙示録21:22)。

「ヨハネの黙示録」20章には、イエス様が再臨される時、この地上に現れるという千年王国というものが出てきます。ある方は、エゼキエルが見た新しい神殿というのは、この千年王国における神殿であろうと述べておられました。ただ、その千年王国の箇所には、神殿に関する記述は一切ありません。大切なことは、エゼキエルが見た新しい神殿がいつ再建されるかということよりも、全能の神である主と子羊キリストこそが私たちにとっての真の神殿であるということではないかと思います。

『御使いはまた、水晶のように輝く、いのちの水の川を私に見せた。川は神と子羊の御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。こちら側にも、あちら側にも、十二の実をならせるいのちの木があって、毎月一つの実を結んでいた。その木の葉は諸国の民を癒した』(同22:1~2)。

水はすべての生きものにとっていのちそのものです。今日の「エゼキエル書」に登場する御使いのことばの中にも、そのことは表されています。

『この川が入るところ、すべてのものが生きる』(エゼキエル47:9b)。

イスラエルの風景よりPhoto by adybert(Pixabay)

<結論>

そして、最後に、今朝、皆さんと共に覚えたいことは、このすべてのものを生かすいのちの水は、来るべき世界においてはもちろんですが、今を生きる私たちのいのちとも、深くつながっているということです。
福音書に出てくるイエス様のことばは、どれも深く心に残るものばかりですが、今日の開会聖句とさせていただいたみことばは、私にとって、何度読んでも心が揺り動かされるようなことばです。本当に不思議なんですが、その深い霊的な意味までは悟り得ないような者であっても、なぜか、読むたびに「アーメン」と言いたくなるんですね。
イエス様は、復活を信じないサドカイ人からの的外れな質問に対して、「あなたがたは聖書も神の力も知らないので、思い違いをしています。(中略)神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神です」と答えられました。少し長くなりますが、このみことばについて、ある本から教えられたことをご紹介して、今日の説教を閉じたいと思います。

「(前略)私たちは神さまをいろいろに思い浮かべますけれども、神さまご自身は「生きている者の神」として信じられることを望んでおられるのです。ですから、そのように信じた時、聖書を思い違いしないで読んだことになるといっていいでしょう。ところで、「神は生きている者の神である」とは、神さまはあらゆるものにいのちを与え、それを支えて、『生かせ いのち』(阿部野龍正・高野山真言宗元管長)と働かれている方だ、ということです。従って、この神さまの前にはいのちしかないのです。神さまは全てのものを生かしつつ神なのであり、それ以外ではないのです。この世的には死者というものがあっても、神さまの前では彼らもまた生きているのです。死んでいるものは何ひとつないのです。「神は死んだ者の神ではない」のですから、全てがそこでは生きているのです。生きてくるのです。輝いてくるのです。そういう力、神さまはそういう力であるということ、それが「神は生きている者の神である」ということなのです。そして、そういうことが聖書を読んで分かるなら、それが聖書の思い違いをしていない読み方なのです。それが分からないなら、その読み方は思い違いなのです。どんなに数多く読んだとしても、どんなに正確に読んだとしても、どんなに多くのことを知り得たとしても、聖書の読み方としては、それは思い違いなのです。大事なことは、聖書を読んで、全てのものが意味あることとして生きてくる、いのちを復活してくる、そのいのちの源としての神さまと出会うことです。それ以外の読み方は思い違いなのです。(後略)」

(「この光にふれたら」藤木正三著)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF101KB)

新聖歌

開会祈祷後:214番、メッセージ後:464番

聖書交読

詩編 18篇1~15節

2020年教会行事

4月29日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月3日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。

#52-2708

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