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メッセージ
<マルコの福音書 16章1~8節>
牧師:砂山 智 師
聖書箇所 マルコの福音書(新改訳2017版より引用)
16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。
16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が昇ったころ、墓に行った。
16:3 彼女たちは、「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた。
16:4 ところが、目を上げると、その石が転がしてあるのが見えた。石は非常に大きかった。
16:5 墓の中に入ると、真っ白な衣をまとった青年が、右側に座っているのが見えたので、彼女たちは非常に驚いた。
16:6 青年は言った。「驚くことはありません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められていた場所です。
16:7 さあ行って、弟子たちとペテロに伝えなさい。『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』と。」
16:8 彼女たちは墓を出て、そこから逃げ去った。震え上がり、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。
開会聖句
イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った。
<ヨハネの福音書 20章16節>
メッセージ内容
<序論>
星野富弘さんという方の詩に、次のようなものがありました。
「花がきれいですねぇ 誰かがそう言って うしろを過ぎて行った 気がつくと目の前に花が咲いていた 私は何を見ていたのだろう この華やかな春の前で いったい何を考えていたのだろう」。
今日は「ラボニ(先生)」と題して、イースターの朝、イエス様のいのちに生かされるということの意味について、皆さんと一緒に考えてみたいと思っています。
<本論>
1、最初の証人
復活の記事は四つの福音書すべてが書き残していますが、その内容は微妙に異なっています。今日のテキストの「マルコの福音書」では、週の初めの日(日曜日)の早朝、イエス様が葬られた墓に出かけて行ったのは、
『マグダラのマリアとヤコブの母マリアとサロメ』(マルコ16:1)
たちでした。三人は、墓に向かう道々、『「だれが墓の入口から石を転がしてくれるでしょうか」と話し合っていた』とあります。このことばを書き残しているのはマルコだけなんですが、彼女たちには何の確信も、見通しもなかったということが分かります。そんな彼女たちを突き動かしていたものは、一体、何だったでしょうか?それは、イエス様に対する熱い思いでした。あのイエス様に、イエス様のご遺体に、せめて香料を塗って差し上げたいという思い。その思いが、彼女たちの足を墓に向かわせたのです。
聖書には、イエス様が十字架の上で亡くなられたのは木曜日の午後三時であったと記されています(マルコ15:33~)。その後、数時間で日没を迎えます。ユダヤの一日は、日没から始まりますので、安息日(金曜日)が始まるまで僅かの時間しか残されていなかったのです。安息日には遺体を墓に埋葬するという行為は禁止されていましたので、ピラトに遺体の引き取りを願い出た有力な議員ヨセフは、大急ぎでイエス様の遺体を墓に葬ったと思われます。マグダラのマリアたちも、安息日明け、つまり金曜日の日没後の僅かの時間を使って香料を買いに行ったのでしょう。そして、彼女たちは、今や遅しと夜が明けるのを待って、墓までやって来たのです。神は彼女たちの熱い思いを無駄にはされませんでした。墓に着いた彼女たちが目撃したのは、転がされた石と空っぽの墓。そして真っ白な衣をまとった青年(御使い)から告げられた驚くべき知らせだったのです。神がイエス様復活の最初の証人とされたのは、十一人の使徒たちではなく、彼女たち三人だったのです!
2、 マグダラのアリア
この三人の中で最も有名な女性はマグダラのマリアでしょう。彼女は多くの絵画のモデルとされたり、小説や映画などでも取り上げられていますが、残念ながら、その多くは、興味本位と言いますか、単なる伝承を基にしているようです。聖書では、十字架や復活の場面以外で、彼女の名前がはっきりと出てくるのは次の箇所だけです。
『その後、イエスは町や村を巡って神の国を説き、福音を宣べ伝えられた。十二人もお供した。また、悪霊や病気を治してもらった女たち、すなわち、七つの悪霊を追い出してもらったマグダラの女と呼ばれるマリア、ヘロデの執事クーザの妻ヨハンナ、スザンナ、そのほか多くの女たちも一緒であった。彼女たちは、自分の財産をもって彼らに仕えていた』(ルカ8:1~3)。
私も、今回、初めて知ったことですが、福音書には、マグダラのマリアが七つの悪霊を追い出してもらったという場面すら、書かれていないんです。ある方は、この箇所の直前に登場する
『一人の罪深い女』(ルカ7:37)
とマグダラのマリアとを同一視しているようですが、それも、あくまでも推測の域を出ないことです。けれども、一つのことだけは言えると思います。それは、その罪深い女性が、泣きながらイエス様の足を涙でぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、口づけして香油を塗ったことに対して言われた、イエス様のことばの中に表されています。
『ですから、わたしはあなたに言います。この人は多くの罪を赦されています。彼女は多く愛したのですから。赦されることの少ない者は、愛することも少ないのです』(ルカ7:47)。
この罪深い女性も、マグダラのマリアも、多くの罪を赦されたと自覚する人、すなわち、多く愛する人であったということです。
<結論>
<結論>
今日の開会聖句とさせていただいた「ヨハネの福音書」のみことばは、復活のイエス様がマグダラのマリアにそのお姿を現された時のやり取りです。「マルコの福音書」16章9節には、
『さて、週の初めの日の朝早く、よみがえったイエスは、最初にマグダラのマリアにご自分を現された』
とありますので、これが復活されたイエス様の最初の顕現であったのですね。
ところで、マリアは、二回、うしろを振り向いた、とあります。一回目は、20章14節。
『彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。そして、イエスが立っておられるのを見たが、それがイエスであることが分からなかった』(ヨハネ20:14)。
そして、二回目が、その少し後の16節です。
『イエスは彼女に言われた。「マリア。」彼女は振り向いて、ヘブル語で「ラボニ」、すなわち「先生」とイエスに言った』(ヨセフ20:16)。
同じようにうしろを振り向きながら、どうしてこのような違いが出てきたのでしょうか?もしかしたら、一回目はマリアがうしろを振り向いてイエス様を探したのに対して、二回目はイエス様が声をかけてマリアをうしろに振り向かせたからなのかもしれません。そうです。実は、イエス様はマリアのうしろにずっと立っておられたのです。しかし、彼女が、自分自身の思いや努力でイエス様を探そうと振り向いた時には、そのことに気づかなかったのです。ですから、うしろからイエス様に「マリア」と声をかけられ、振り向いた時、彼女はその間違いに気づかされたのではないかと思うのです。「ラボニ(先生)」ということばは、そのような彼女の気づきのことばであり、自分は、自分の力でイエス様を見つけようと探していたけれども、実は、イエス様が、うしろの方から自分のことをずっと見守っていてくださったんだ!自分はそのことに気づいていなかったけれども、本当は、ずっとイエス様の愛に包まれて生かされていたんだ!という、感動のことばであったと思うのです。
私たちはよく、「前向きに!」ということを言いますが、たまには、イエス様のことばにうしろを振り向かせられて、イエス様が見守ってくださっているという平安をいただいて、イエス様のいのちに歩む者でありたい、と切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:105番、メッセージ後:111番
聖書交読
詩編 16篇1~11節
2020年教会行事
4月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
5月3日(日)までに予定されていた教会行事も全て中止となりました。
#52-2706
2 comments to this article
mb-senri_web
on 2020年4月11日 at 8:42 PM -
今回のページに掲載した素晴らしい桜の写真(笠松河津桜ロード(松阪市))をお借りしたサイトはこちらです。
三重フォトギャラリー(https://photo.mie-eetoko.com/)
mb-senri_web
on 2020年4月12日 at 11:53 AM -
牧師の砂山先生より、一部訂正が入りました。
(以下引用)
イエス様が十字架に架けられて亡くなられたのは、木曜日ではなく金曜日の午後3時であり、マリアたちが香油を買いに行ったのは土曜日の日没から夜になるまでの間でした。
申し分けありません。お詫びして訂正させていただきます。