<マルコの福音書 4章35~41節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」
<マルコの福音書 3章40節>
メッセージ内容
<序論>
・「マルコの福音書」からの三回目です。今日の場面は、イエス様がガリラヤ湖の畔に集まって来た非常に多くの群衆にたとえで話された後に起こった出来事です。直前の33と34節には、次のようにあります。
『イエスは、このような多くのたとえをもって、彼らの聞く力に応じてみことばを話された。たとえを使わずに話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちには、彼らだけがいるときに、すべてのことを解き明かされた』(マルコ4:33~34)。
弟子たちには、特別にすべてのことを解き明かされた、とマルコは記しています。そんな弟子たちでしたが、現実の世界で、自らの信仰(イエス様への信頼)を問われるような場面に遭遇します。
今日は、「嵐の中で」と題して、皆さんと一緒にみことばから見てゆきたいと願っています。
<本論>
1、すると、激しい突風が起こって
私は、学生時代、属していた聖書研究会の合宿で、何度か琵琶湖を訪れたことがあります。宿舎は「北小松学舎」や「唐崎ハウス」と呼ばれていた大学の施設で、とても懐かしい思い出なんですが、小学生の頃、夏休みになると毎年のように親父の田舎である石川県の能登半島の海で泳いでいましたので、湖というのは海と違って波も穏やかで泳ぎやすいなと思っていました。しかし、そんな穏やかな琵琶湖でも、季節によっては突風が吹き荒れることがあります。「比叡颪」とか「比良颪」とも呼ばれていますが、過去には、そんな突風によって大きな水難事故が起きたこともあったようです。今日の舞台であるガリラヤ湖も、その点では琵琶湖と似ているようです。南にある死海ほどではありませんが、ガリラヤ湖は海面からマイナス200mほどに位置する湖です。そのすり鉢状の形と周りを囲む山々との温度差から、湖の周囲から猛烈な突風が吹き下ろしてくることがあるそうです。今日の場面で弟子たちが遭遇した激しい突風というのは、そのようなものであったと思われます。また、彼らは、恐らく、先週お話しした十二人の弟子たちであったと思われます。イスラエルの「イーガル・アロン・センター」という博物館(すぐ近くのレストランでは「聖ペテロの魚(ピーターズフィッシュ)」と呼ばれる魚料理が観光客向けの名物料理だそうです!)には、1986年に発掘されたイエス様の時代の漁師が使った舟(ジーザスボート)が展示されているそうです。それは全長8.2m、幅2.3m、高さ1.2mの小さな木造舟ということですので、そんな舟にイエス様と十二人全員が乗っていたかどうかは分かりませんが、ガリラヤ湖の漁師であったペテロたちは、イエス様から「向こう岸へ渡ろう」と言われた時、「ここは俺たちの出番!イエス様、任せといてください!」と張り切って舟を漕ぎだしたのではないかと思います。しかし、37節を見ると、
『すると、激しい突風が起こって波が舟の中にまで入り、舟は水でいっぱいになった』(マルコ4:37)。
ガリラヤ湖のことは知り尽くしていたはずの彼らでしたが、突然の激しい突風のために、舟は今にも沈みそうになってしまったのです。
この出来事のきっかけとなったイエス様の「向こう岸へ渡ろう」ということばは、今日の弟子たちだけでなく、多くの人々が自分に語られたことばとして受け止め、応答の歩みを始めるきっかけとなったことばです。しかし、その「向こう岸」(5章1節には『ゲラサ人の地』とありますが)は、どのような世界だったでしょうか?素晴らしく平和な世界、悪いことは起こらない、良いことばかりの世界であったでしょうか。否。今、弟子たちは、そこに向かって舟を漕ぎだした途端、激しい突風に襲われたのです。
イエス様は、「ヨハネの福音書」16章33節で次のように言われました。
『(あなたがたは)世にあっては患難があります。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝ちました』(ヨハネ16:33b)。
私たちも、この世にある限りは、弟子たちと同じような患難を経験するのです。
2、 どうして怖がるのですか
さて、今日の開会聖句は、イエス様が嵐を鎮めてくださり、風がやみ、すっかり凪になった後で言われたことばです。39節から読むと、
『イエスは起き上がって風を叱りつけ、湖に「黙れ、静まれ」と言われた。すると風はやみ、すっかり凪になった。イエスは彼らに言われた。「どうして怖がるのですか。まだ信仰がないのですか。」』(マルコ4:39,40)。
今、皆さんもご存じのように、世界中を「新型コロナウイルス」の猛威が吹き荒れています。連日、それらに関する報道がなされていますが、どこまで感染が拡大し、何人の人々が亡くなるのか?誰にも見通せない状況です。ある方は、「怖いのはウイルスではなくて、人間(の恐怖心)のほうだ」と述べておられましたが、本当にそのように思わされます。それは、先を見通すことができない、この状況がいつまで続くのか、どこまで悪くなるのか全く予想がつかない、ということから生まれてきます。ですから、デマだと分かっているのに、トイレットペーパーを買い占めたり、マスクを買い占めたりするんですね。人の弱みに付け込んで一儲け企んでいる「転売ヤー」なんか、本当に論外ですが。
イエス様は、そのような私たち人間の性質をよくご存じの方です。ですから、まず、目に前にある嵐を鎮められてから、弟子たちに言われたんですね。嵐も何も鎮まらない状況で何を言っても、こいつら全く聞く耳を持たないだろうということは分かっておられたのでしょう。この40節の『信仰(ピスティス)』と訳されていることばは、「信頼」とも訳せることばですが、「へブル人への手紙」11章1節に次のようにあります。
『信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです』(へブル11:1)。
目に見えるものを信じます、結果を見てから信じますというのは、誰にでも言えることです。それは聖書が言うところの信仰(信頼)ではないんですね。しかし、目に見えないものを信じるということは、私たちにとって、本当に難しいことです。十二弟子の一人にトマスという人がいました。以前にもお話ししたことですが、「ヨハネの福音書」20章の最後に出てくる話です。彼は、復活のイエス様が弟子たちに姿を現された時、運悪くその場にいませんでした。けれども、イエス様は、トマス一人のためにもう一度現れてくださり、そして次のように言われたのです。
『「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしの脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」トマスはイエスに答えた。「私の主、私の神よ。」イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じる人たちは幸いです。」』(ヨハネ20:27~29)。
イエス様が言われた「見ないで信じる人の幸い」とは、時に、人生の不運・不幸とも呼べるような出来事に遭遇せざるをえない私たちが、自分の人生を否定しないで、肯定し、どんな運命にある自分をも受け入れ、自分自身を好きになって生きていくこと。その幸いのことではないでしょうか。
<結論>
<結論>
最後に、今日のテキストの最後にある弟子たちのことばに注目したいと思います。
『「風や湖までが言うことを聞くとは、いったいこの方はどなたなのだろうか。」』(マルコ4:41)。
私たち信仰者の歩み・人生とは、この弟子たちが言った「いったいこの方はどなたなのだろうか」ということを追い求める人生ではないかと思います。
この私も、牧師でございと言っても、「お前は本当にイエス様のことを知っているのか」と問われれば、とても胸を張って「知っています」とは言い難い者だと思わされています。イエス様というお方はどういう方であるかということを知ること。それが私たち信仰者にとっての生涯をかけた目標ではないでしょうか。この「知る(ギノースコー)」というギリシア語は、単に知識として、頭の中で知るということではなく、体験的に知るという意味を含んだことばです。今日の弟子たちが嵐の中でイエス様の力を体験したように、私たちも体験することができますように。そして、もっともっとイエス様のことを知ることができますようにと、切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:40番、メッセージ後:191番
聖書交読
詩編 12篇1~8節
2019年教会行事
3月18日(水)オリーブ・いきいき百歳体操→お休み
※「オリーブいきいき百歳体操」は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を抑制するため、
3月中はお休みとさせていただきます。皆様のご理解とお祈りをお願いいたします。
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