十二使徒の任命

メッセージ

<マルコの福音書 3章7~19節前半>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

さて、イエスが山に登り、ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た。イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた。

<マルコの福音書 3章13~14節前半>

メッセージ内容


<序論>  
・「マルコの福音書」からの二回目です。二章の後半から三章の前半にかけて、安息日についての論争が展開されます。2章27~28節にあるイエス様のことばがすべてだと思いますが、「マタイ」と「ルカ」の平行記事には、「安息日は人のために設けられたのです。人が安息日のために造られたのではありません」ということばは出てきません。マルコだけが書き残しています。このイエス様のことばに、「マルコの福音書」の特徴がよく表れているのではないかと思います。それは、非常にはっきりとした、ストレートなことばです。ある方は、マタイとルカは、このことばはイエス様のことばとしては過激すぎると考えたので、書き残さなかったのではないかと書いておられました。面白い解釈ですね。今の時代の私たちもそうですが、イエス様は、宗教生活という手段(安息日を守るということ)が目的化してしまうことを戒められたのだと思います。私たちも、安息日の主であると言われた方のみことばに耳を傾けたいものです。

<本論>
1、非常に大勢の群衆が

そして、今日の7節には、イエス様の噂を聞きつけたのであろう非常に大勢の人々が、イエス様の後をついてきたと記されています。彼らは、ユダヤから、エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向う、ツロ、シドンのあたりから集まって来た人たちでした。ユダヤのエルサレムからイエス様のおられるガリラヤまで160Km以上あります。イドマヤというのは、ユダヤよりももっと南の方です。ツロとシドンは、ガリラヤの西北、地中海沿岸にあったフェニキア人の町です。そのような広範囲から、非常に大勢の人々がイエス様の下に押し寄せてきたんです。細かな訳の違いですが、前の新改訳聖書【第三版】には『非常に』ということばはありませんでした。それがどれほどの人数であったのかは分かりませんが、単なる大勢ではなく、非常に大勢の人々が押し寄せて来たんです。ものすごいことになっていたのではないでしょうか。

10節を見ると、彼らの多くは病気に苦しむ人たちで、イエス様にさわるだけで癒されると信じて殺到してきたみたいですから、イエス様もそうですが、お側で仕えていた弟子たちも、恐怖を感じるほどであったのではないかと思います。ですから、9節にあるように、イエス様が小舟を用意しておくようにと命じられたのは仕方のないことだったのかなとも思うのですが、あの癒し主であり、愛の人であったイエス様が、病で苦しむ大勢の人たちを見捨てて行ってしまわれるとは・・・。少し腑に落ちないような気分になります。その理由はイエス様に聞いてみないと分からないのですが、私は、この箇所を読んで、なぜか、先日、テレビで観たある映像を思い出しました。それは、韓国のニュースの映像なんですが、今、韓国では、新型コロナウイルス感染拡大の元凶となったということで、ある新興宗教団体(カルト)が厳しく糾弾されています。礼拝の様子がテレビに映っていましたが、非常に大勢の人々が、同じような姿で、熱狂して何かを叫んでいる(祈っている?)様子でした。彼らはとても信仰に熱心なように見えます。しかし、その熱心の動機は、一体どのようなものなのでしょうか?聞くところによると、その団体の教祖である人物は、自分こそが再臨の救い主キリストであり、この世の終わりには十四万四千人の人たちを天国に連れて行く権威が与えられている、と言っているそうです。その十四万四千人の中に自分が入ることができるようにと、彼らは熱心に宗教活動をしているんです。そして、一方では、矛盾しているのですが、彼らが強調するのは現世利益です。つまり、病気の癒しやこの世での成功。自分の都合や欲望を満たすことなんです。今日の聖書の、イエス様の下に押し寄せてきた非常に多くの群衆も、もしかしたら同じであったのかもしれません。イエス様は、私たちがそういう求め方をする時に、去って行かれるではないでしょうか。病気の苦しみ、辛さというものは、その方や、身近におられるご家族にしか分からないことだと思います。しかし、私たちは、

『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』(Ⅱコリント12:9)

と言われた方にお委ねして、日々、歩む者でありたいと願います。

2、 ご自分が望む者たちを

そして、もう一つ、私たちの信仰にとって大切なこと、それは、イエス様によって呼び寄せられるということではないかと思います。よく、信仰の自発性と言いますか、言われたからやるという信仰ではなく、自発的・能動的な信仰ということが言われますが、その大前提は、イエス様によって呼び寄せられたということにあると思います。今日の開会聖句である13節には、

『ご自分が望む者たちを呼び寄せられると、彼らはみもとに来た』(マルコ3:13)

とあります。彼らの姿はイエス様のところに押し寄せてきた群衆とは非常に対照的です。この『ご自分が望む者たち』と訳されていることばを、「口語訳聖書」は『みこころにかなった者たちを』と、「新共同訳聖書」はもっと分かりやすく『これと思う人々を』と訳していました。結局、私たちには、神がなぜ、こんな私を選ばれたのかということは分からないのですが、私たちの信仰は、イエス様によって呼び寄せられたと信じるところから始まるのではないでしょうか。旧約に登場する(少年)サムエルが神殿で寝ていた時、神が現れ、彼の名を呼んだ時に、

「お話しください。しもべは聞いております」(Ⅰサムエル3:10)

と答えたように、私たちの信仰も、主からの呼びかけに素直に耳を傾けることから始めたいですね。

<結論>

<結論>
そして、今日の開会聖句の後半、14節には、

『イエスは十二人を任命し、彼らを使徒と呼ばれた』(マルコ3:14a)

とあります。
この箇所には※印があり、下の脚注に「異本「彼らを使徒と呼ばれた」を欠くものもある」と書かれていますが、三年前の改定で、訳が変わった箇所の一つです。以前の訳では、「使徒」ということばはなく、「十二弟子(を任命された)」と訳されていました。
どちらの訳が正しいとか、優れているということは、もちろん言うことはできませんが、私は、この【2017】で「彼らを使徒と呼ばれた」ということばが、強く印象に残りました。それは、イエス様が、十二人の弟子たち一人一人に期待を込めて、ある意味、彼らに賭けて、敢えてそのように呼んでくださったのかな、と感じたんです。

テレビや映画の時代劇なんかで、「お前は武士の子なんだから、・・・」というセリフを聞くことがあります。それは、今は落ちぶれてしまっているかもしれないけれども、元を質せば、お前は農民や町民の子どもではなく、侍の子どもなんだ。だから、そう呼ばれるにふさわしく、誇り高い、恥ずかしくない生き方をしなさい、ということですよね。もちろん、その背景には、前時代的な間違った階級意識(?)というものがあるわけですが、先程、強く印象に残ったと申し上げたのは、イエス様は、このありふれたと言いますか、人間的に見れば、決して特別な能力や資格に恵まれたとは思えない十二人の弟子たちを、「使徒」と呼んでくださった。彼らは、そのことのゆえに、「使徒」として歩み続けることができたのではないかと思ったんですね(イスカリオテのユダは別ですが・・・)。「使徒(アポストロス)」というギリシア語は、元々、「派遣された者」という意味ですが、そこから転じて「使者」や「使節」という意味も持つようになりました。また、聖書ではこの十二人だけでなく、パウロやバルナバなども、そのように呼ばれています。

私たちは、そのような「使徒」の一人ではありませんが、今朝、イエス様は、私たちをこの礼拝に呼び寄せ、それぞれの持ち場、立場に遣わそうとしておられるのではないでしょうか。最後に、「ヨハネの福音書」15章にあるイエス様のみことばを読んで、今日の説教を閉じたいと思います。

『わたしが命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもう、あなたがたをしもべとは呼びません。しもべなら主人が何をするのか知らないからです。わたしはあなたがたを友と呼びました。父から聞いたことをすべて、あなたがたには知らせたからです。あなたがたがわたしを選んだのではなく、わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命しました。それは、あなたがたが行って実を結び、その実が残るようになるため、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものをすべて、父が与えてくださるようになるためです。あなたがたが互いに愛し合うこと、わたしはこれを、あなたがたに命じます』(ヨハネ15:14~17)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF101KB)

新聖歌

開会祈祷後:395番、メッセージ後:433番

聖書交読

詩編 11篇1~7節

2019年教会行事

3月11日(水)オリーブ・いきいき百歳体操→お休み
※「オリーブいきいき百歳体操」は、新型コロナウイルスの感染拡大の影響を抑制するため、
3月中はお休みとさせていただきます。皆様のご理解とお祈りをお願いいたします。

#52-2701

Comments are closed