<創世記 27章5~25節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」
エサウは声をあげて泣いた。
<創世記 27章38節>
メッセージ内容
<序論>
・今日の物語の時代から何百年か後のことですが、神は神の山ホレブで燃える柴の中からモーセにご自身を現された時、次にように名乗られました。
「わたしはあなたの父祖の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」(出エジプト3:6)。
イスラエルの始まりはアブラハムですが、この三代は、「一子相伝」であったと言えます。その後、ヤコブの十二人の息子たちがイスラエルの十二部族の祖となり、そこから民族としてのイスラエルが形成されていきます。
今日は、「創世記」27章の、ヤコブが父イサクをだまして、兄エサウが受けるはずだった祝福を横取りするという場面から、「一つだけの祝福」と題して、皆さんと一緒に見てゆきたいと願っています。
<本論>
1、穏やかな人
今日のテキストの少し前の25章には、ヤコブとエサウが生まれた時の話と、その後の興味深い話があります。25章20節にあるように、イサクは40歳の時、リベカという女性と結婚します。その経緯は24章に書かれていますが、イサク自身は何もしていません。すべて父アブラハム任せみたいな感じなんですね。アブラハムに命じられたしもべが、アブラハムの故郷であるアラム・ナハライムまで出かけて行って、イサクの嫁となるリベカを見つけ出し、連れて帰って来るんです。それは、アブラハムが、イサクの嫁は自分たちが住んでいる約束の地カナン(人)から迎えてはならないと命じていたからなんですが、イサクはただ、父が命じる通りにリベカと結婚するのです(創世記24:62~65)。もちろん、今と違って、父親の権威というものがとても強い時代(社会)の話ですので、それは当然といえば当然なんですが、何か、初代と二代目の違いということも思わされます。そして、それ以上に、私たちが覚えなくてはならないことは、神は、アブラハム、イサクという人物の生涯を通して(そして、後にはヤコブもそうですが)、ご自身を啓示された(現わされた)ということです。
アブラハムに現わされた神は、全能の神(エル・シャッダイ)であるということ。
そして、(霊的な)父であるということではないでしょうか。新約聖書の「ローマ人への手紙」11章36節に次のようなみことばがあります。
『すべてのものが神から発し、神によって成り、神に至るのです』(ローマ11:36a)。
初代アブラハムの生涯を見る時、そのような思いにさせられます。
それに対して、イサクに現わされた神はどんな神だったでしょうか?
イサクは、父アブラハムのゆえに祝福を受けました。そして父の信仰、神に絶対的な信頼をおいて生きる姿を通して、すべてのものを受けたのです。「創世記」22章にある、イサク自身が全焼のいけにえとして献げられそうになる場面は、そのことを象徴しているのではないかと思います。神への全き信頼と従順によってすべてのものを受け継ぐということ。これこそ、私たちがイサクから学ばなければならないことではないでしょうか。
さて、それでは、今日の主人公である三代目のヤコブを通して現わされた神は、どのような神だったのでしょうか?
ヤコブとエサウが生まれた時の経緯は25章21~26節に書かれています。二人は兄弟(双子)でありながら非常に対照的です。そして27節からは、もっと興味深い話が書かれています。私が気になったのは、27節にある『ヤコブは穏やかな人で』ということばです。岩波訳聖書は、これを「非の打ちどころのない人」と訳しているんですが、穏やかな、非の打ちどころのない人であったヤコブが、兄エサウをだまして長子の権利を奪ってしまう。なんとも不思議な話です。
2、 リベカの策略
そして、今日の物語で「影の主役」とも言えるのが、イサクの妻でヤコブとエサウの母であったリベカです。彼女は、夫イサクがエサウに祝福(長子の権利)を授けようとしていることを聞きつけて、自分の愛する息子ヤコブに策略を授けます。この一連の出来事の絵を描いたのはヤコブではなくリベカでした。リベカは、もし、失敗したらと尻込みするヤコブに対して、13節。「子よ、あなたへののろいは私の身にあるように」と励まします。腹が座っているというか、度胸がありますよね。まさに「母は強し」です。そして、ヤコブは母の指示通りに行動し、まんまと祝福(長子の権利)を奪い取ってしまうのです。今日の開会聖句は、そのすぐ後で、一切を知ったエサウが語ったことばです。
『エサウは父に言った。「お父さん、祝福は一つしかないのですか。お父さん、私を祝福してください。私も。」エサウは声をあげて泣いた』(創世記27:38)。
ある旧約の学者は、このエサウの涙は、罠にかかった獣の叫びのように、聖書中、最も哀調に満ちたものである、と書いておられました。
私たちは、この物語を読むとき、「ヤコブという男、また、オカンのリベカもそうやけど、なんちゅうやっちゃ!こんな卑劣な手段で長子の権利をだまし取って、何が嬉しいんや!なんで聖書にこんな物語が書かれてるんやろ?理解に苦しむわ!」と素直に思うわけですが、一体、神様の意図はどこにあるのでしょうか?今日のメッセージの最後に、少し考えてみたいと思います。
<結論>
今日の題は、「一つしかない祝福」とさせていただきました。倫理的に見て、今日のリベカとヤコブがしたことは決して赦されることではないと思いますが、それは裏を返せば、それほどまでしてでも二人が手に入れたかったものは、本当に価値のあるものであって、二人はそのことをよく分かっていたからこそ、方法は間違っていたけれども、やってしまった、ということではなかったかなと思うんです。それに対して、エサウは祝福の本当の価値というものを全く分かっていませんでした。彼は神からの祝福を軽く見ていたのです。
イエス様は、「マタイの福音書」13章で次のようなたとえを話されました。
『天の御国はまた、良い真珠を探している商人のようなものです。高価な真珠を一つ見つけた商人は、行って、持っていた物すべてを売り払い、それを買います』(マタイ13:45~46)。
その商人は、見つけた真珠の本当の価値を知っていました。それは、自分の全財産を投げうってでも手に入れるに値するものであるということを。マタイが記している『天の御国』とは、神がおられる世界、神がご支配しておられる世界ということです。それは、あなたがたが全財産を投げうってでも手に入れる価値があるものなんだ、とイエス様は言われたのです。
イエス様はまた、次のようにも言われました。
『自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴をあけて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むことはありません。あなたの宝のあるところ、そこにあなたの心もあるのです』(マタイ6:19~21)。
私も、最近、本当にちょっとした予期せぬことがあって、良かれと思ってやったことが、浅はかな考えから裏目に出てしまうという経験をしました。そして、何度も何度も頭の中で堂々巡りのように考えてしまうんですが、その問題の中に閉じ込められてしまったようで、不安と焦りの思いだけが募るんです。それは今も完全に吹っ切れたわけではないんですが、そのような中で、改めて思わされことは、「お前にとって一番大切なもの、本当に頼りとするものは、なんなんだ?」ということでした。
今日のヤコブは、最終的には、自分の蒔いた種を刈り取らされることになります。また、彼の性格面での強さであり弱さでもあったと思うのですが、その強烈な自我が打ち砕かれるということも経験させられます。しかし、彼には分かっていたんです。それは、父イサクを通して与えられる祝福には、どれほどの価値があるのかということが。今日、ここにおられる皆さんお一人一人も、そしてこの私も、ヤコブと同じように、その価値を知る者でありたいですね。最後にもう一つ、イエス様のことばをお読みして、今日のメッセージを閉じたいと思います。
『まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます』(マタイ6:33)。
特別讃美
女性会
「主の愛の汝が内に」(新聖歌392番)
「主われを愛す」(新聖歌505番)
新聖歌
メッセージ後:384番
聖書交読
詩編 7篇1~8節
2019年教会行事
2月12日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#52-2698
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