ノアの物語 Ⅱ

メッセージ

<創世記 9章18~29節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。
いのちの泉はこれから湧く。

<箴言 4章23節>

メッセージ内容


<序論>  
・前回に続いて「ノアの物語Ⅱ」です。前回は6章のノアに神様からの啓示があった場面を見ました。

<本論>
1、主はうしろの戸を閉ざされた

6章22節と7章5節には同じような言葉が書かれていました。

『ノアは、すべて主が彼に命じられたとおりにした』(創世記7:5)。

箱舟のサイズや構造、そこに入れる動物たちまで、神様はノアに細かく指示しておられますが、彼はすべてそのとおりに従ったんですね。そして、7章11節。

『ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれた。大雨は四十日四十夜、地に降り続いた。ちょうどその日に、ノアは、息子たちのセム、ハム、ヤフェテ、またノアの妻と、息子たちの三人の妻とともに、箱舟に入った』(同7:11~13)。

昨今、「ゲリラ豪雨」ということばをよく聞きます。「息苦しくなるほどの豪雨」というのを、私はまだ体験したことがありませんが、昨年の台風は各地に記録的な大雨と被害をもたらしました。大いなる淵の源がことごとく裂け、天の水門が開かれたという大雨の恐ろしさは、どれほどのものだったでしょうか。
そして、16節。

『(箱舟に)入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であった。それらは、神がノアに命じられたとおりに入った。それから、主は彼のうしろの戸を閉ざされた』(同7:16)。

ある聖書学者は、「この閉じこめは(神がうしろの戸を閉ざされたということは)、神の愛である」と書いておられました。それは、もし神がノアのためにうしろの戸を閉ざされなかったなら、恐らくノアは、箱舟の中の単調で不自由な生活、窮屈に耐えかねて、外に出て、せっかくの救いの恵みから転落してしまったのではないか、ということなんです。彼は、神によって閉じ込められたがゆえに、丸一年もの長い間、二匹ずつ集められた動物とともに箱舟にとどまることができ、神の祝福を受けることができたということですね。もちろん、これは仮定の話ですので誰にも分からないことですが、私たちの信仰生活においても同じようなことがあるのではないかと思わされました。今は神さまのみこころが分からなくて、まるで問題の中に閉じ込められてしまったように思えても、後になってその意味が分かるという。イエス様は最後の晩餐の席で

、『「わたしがしていることは、今は分からなくても、後で分かるようになります。」』(ヨハネ13:7)

と言われました。それは、食事の途中で弟子たちの足を洗われた時でした。ペテロは、イエス様に足を洗ってもらうことを拒んだのですが、そのペテロに向かってイエス様が語られたことばです。イエス様は、ご自身に残された少ない時間を思いつつ、弟子たちに愛の模範を示そうとされたのですが、この時のペテロには、その意味が分からなかったのです。

2、 約束の虹

さて、ノアの物語に戻りたいと思いますが、やがて大雨は止み、地の上から水も引き、ノアとその家族、動物たちが解放される時がやって来ます。そして、神様は、生き残ったノアとその息子たちを祝福し、新しい契約を結ばれます。それが、9章の前半に記されています。6章18節で言われた契約の具体的な内容です。9節から17節までですが、その契約のしるしとして与えられたのが「虹」なんです。確かに、雨上がりの空に見える虹というのは、何とも言えない希望を感じさせます。私事になりますが、先日、次男のお嫁さんのご家族との顔合わせがありまして、その中で、オリンピックの話になって、先方のお父さんは私よりも二学年下なんですが、我々が一番記憶に残っているオリンピックと言えば、やっぱり札幌オリンピックですねということで、「虹と雪のバラード(トワエモア)、いい曲でしたね」とうなずき合ったんですが、虹というのは、希望の象徴として相応しいものだと思います。そして、そのような新たな希望を神様からいただいたノアは、再び地上での生活を始め、先程、読んでいただいた箇所の20節にあったように農夫となり、ぶどう畑を作り、そこから収穫したぶどうでぶどう酒を作ります。彼は、具体的な生活の中で、神からの豊かな恵みを味わったわけです。ところが、「好事魔多し」と言いますが、あろうことか、彼は、そのぶどう酒を飲んで酔っ払い、失敗をしてしまうのです。

<結論>

『彼はぶどう酒を飲んで酔い、自分の天幕の中で裸になった』(創世記9:21)。

だいぶん以前になりますが、あのSMAPのメンバーの草彅剛さんが、酔っ払って裸になり謹慎を食らったことがありました。お酒のリスクということを思わされるわけですが、ノアの場合は、彼のように公衆の面前ではなく、自分の天幕の中で裸になったということですので、正直、そんなに問題ではないようにも思えるのですが、これは、やはり、神を恐れない破廉恥な行為ということになるんですね。聖書では、「ぶどう」とか「ぶどう酒」というのは、豊かさの象徴として描かれることが多いと思います。あのノアであっても、豊かな恵みを味わっているうちに、つい誘惑に負けてしまったということでしょうか。そして、彼は酔いからさめると、末の息子(ハム)や他の息子たちがしたことを知って、ハムの息子カナンへは呪いのことばを。そして、セムとヤフェテには祝福のことばを贈るのです。彼がなぜ、末の息子ハムを呪ったのか。それもハムではなく孫のカナンを、ということについては一定の解釈があるんですが、そういうことよりも、私は、今回のノアの姿を通して、私たち人間の心の不思議さと言いますか、まさに、今日の開会聖句が頭に浮かんできたんです。

『何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く』(箴言4:23)。

先週もお話ししましたが、ノアは、大洪水から救い出されるまでは一言も文句も言わずに、ただ「すべて主が命じられたとおりにした」と書かれていました。それは、彼の信仰が特別に素晴らしかったということもあったと思いますが、私は、何か心がないと言うか、本心が見えないと言いますか、そのようなノアに人間らしさを感じることができなかったんです。それは、「お前が自分という不信仰な人間を基準にしてノアを見ているからや」と言われそうですが、私は、今日の場面を読んで、初めて彼の人間性に触れたような思いがしました。そして、何か心にストンと落ちたような気がしたんです。
相田みつをという人は、「幸せはいつも自分の心が決める」ということばを残していますが、「それでも人生にイエスと言う」という本の中で、ヴィクトール・フランクル(ナチの強制収容所を生きのびた精神科医)という人は、どんな苦境にあっても、たとえ明日ガス室で殺されるとしても、不治の病で死ぬとしても、体がもう動かないとしても、すべての財産、地位や名誉を失ったとしても、その現実に対してどういう態度を取るかという自由だけは奪うことはできない。そこに人間らしさ、人間の根源的な自由があり、最も大切な人生の価値があると説いています。
今日のノアは、人生の一大事をなし終えて、豊かさに酔いしれていた時、大きな失敗をしてしまいました。その時、彼の心はどうだったでしょうか?幸せだったでしょうか?それとも・・・。今年の1月17日で、あの阪神淡路大震災から25年が経ったんですけれども、私はテレビを見ながら、本当に色々な思いが心の中に湧き上がってくるのを抑えることができませんでした。あの理不尽な災害の中でもがき苦しみながら死んでいった多くの方々。今も心に大きな傷を抱えながら生きておられる方々。そして、不幸を乗り越えて、今も乗り越えようとして、必死に前を向いて歩んでいる方々。
『何を見張るよりも、あなたの心を見守れ。いのちの泉はこれから湧く』。祈りましょう。

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新聖歌

開会祈祷後:216番
メッセージ後:384番

聖書交読

詩編 4篇1~8節

2019年教会行事

1月22日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#52-2695

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