ノアの物語 I

メッセージ

<創世記 6章13~22節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。

<ヘブル人への手紙 11章7節>

メッセージ内容


<序論>  
・内容的に見て「創世記」は大きく二つの部分に分けることができます。それは、すなわち、旧約聖書全体の分かれ目とも言えると思うのですが、アブラハムの登場以前と以降です。アブラハムという人はイスラエルの始祖ですので、これ以降の旧約聖書はイスラエルの歴史ということができると思います。それでは、それまでの部分はどうなっているかと言いますと、岩波訳聖書の解説では「原初史」とされていました。そこには、天地創造、エデンの園におけるアダムとエバの物語からバベルの塔の逸話にいたるまで、神話風の物語群と原初の人間の系譜が記されています。その中でも、とりわけ有名なのが、今日の「ノアの箱舟」の物語ではないかと思います。今週と来週は、「ノアの物語」と題して、皆さんと一緒にみことばから見てゆきたいと願っています。

<本論>
1、 正しい人ノア

先程、読んでいただいた箇所の少し前、6章5節以降には次のように記されています。

『主は、地上に人の悪が増大し、その心に図ることがみな、いつも悪に傾くのをご覧になった。それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。そして主は言われた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜や這うもの、空の鳥に至るまで、わたしは、これらを造ったことを悔やむ。」しかし、ノアは主の心にかなっていた。これはノアの歴史である。ノアは正しい人で、彼の世代の中にあって全き人であった。ノアは神とともに歩んだ』(創世記6:5~9)。

この箇所を読んで、いくつかの「はてな?」が浮かんできたのではないでしょうか。まず、神が造られた人間はなぜ悪を増大させてしまったのか?また、6節と7節に「悔やむ」ということばがありますが、神も我々人間と同じように悔やまれるのか?また、その結果として、神はご自身が創造したものすべてを地の面から消し去ろうと決心されたわけですが、それは余りにも身勝手ではないか?政治の世界で、最近、よく「任命責任」ということばを聞きます。或いは、日本には、「製造物責任法(PL法)」という法律がありますが、神様にはそのような責任はないのか?等々。素朴に考えると、様々な疑問が浮かんでくると思うのですが、これらの疑問を抱くことは、決して神を冒涜するだとか、不信仰だということではないと思います。そのような疑問を持つこと自体、むしろ信仰者にとって大切なことだと思うんですが、ただ、私たち人間が神について知ることができることは限られています。「日々のみことば」の著者は、次のように書いておられました。

【神さまはどのようなお方ですか】
1) 神さまは人類の堕落しているさまを、つぶさにご覧になるお方です。

2) 聖なる神さまは、人のもろもろの罪とその結果である地にはびこる暴虐を見て、心を痛めるお方です。

3) 神さまは、罪を犯し続ける者を滅ぼすお方です。

確かにそうですね。それ以上のことは私たち人間には分からない、と言うしかないのですが、ただ、敢えて言わせてもらうならば、聖書が語っている人間観というのは、神との関りで見れば、自然界と同じように、あくまでも神の被造物であるということ。そして、それと同時に、人間は、自らの内に神の姿を映す特別な存在であるということではないかと思います。「創世記」1章26節に次のように書かれています。

『神は仰せられた。「さあ、人をわれわれのかたち(像)として、われわれの似姿に造ろう。こうして彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地の上を這うすべてのものを支配するようにしよう。」』(同1:26)。

ですから、人間はまた、自らの行為に責任をとらなければならない存在であると思うのです(人間に自由・自我が与えられている代償)。だから、神が禁じられた木の実を食べたアダムとエバはエデンの園から追放され、兄弟アベルを殺したカインは地上をさすらわねばならなくなり、そして、地上に悪を増大させた人類は、正しい人ノアとその家族を除いて、洪水によって滅ぼされてしまわなければならなかったんですね。

2、 すべて神が命じられたとおりに

さて、今、私たちは「旧約聖書」を開いていますが、「新約聖書」は、ノアについてどのように言及しているでしょうか?新約の中でノアに言及されている箇所は、私が間違っていなければ三箇所だと思います。一つは、イエス様の、所謂「終末講話」の中でです。二つ目が、今日の開会聖句。そして、三つ目が、「ペテロの手紙第一」3章20節。この箇所の解釈は非常に困難で、いくつもの説があります。マルティン・ルターなどは、正直に「分からない」としているそうです。ただ、この三つ目の箇所の詳細な意味は分からなかったとしても、「新約聖書」がノアを例として語っていることは、はっきりしています。それは、人間の罪と神の裁き(審判)、そして、今日の開会聖句にあるように、私たちもノアと同じように、ただ信仰によって救われる、信仰によって神の義を受け継ぐ者とされるのだ、ということだろうと思います。この「へブル人への手紙」のみことばには、ノアは、まだ見ていない事柄について神から警告を受け
たときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、とあります。ノアが神さまから啓示を受けて箱舟を造り始めた時、周りの人々は何と言ったでしょうか?聖書にはそれらのことは記されていませんけれども、恐らく、ノアのことを嘲笑ったと思います。「こいつは何やってるんだ!頭がおかしいんじゃないか!ばかばかしい!」と。イエス様は、「終末講話」の中で、ノアについて次のように言われました。

『洪水前の日々にはノアが箱舟に入るその日まで、人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていました。洪水が来て、すべての人をさらってしまうまで、彼らには分かりませんでした。人の子の到来もそのように実現するのです』(マタイ24:38~39)。

私たちが生かされている現実の世界、この目の前の世界は、確かに、イエス様がおっしゃったような世界です。「神なんか信じて何になるんだ。年に一度の初詣やえべっさんで十分だ。ご利益があれば、それで儲けものだし、そうじゃなかったら、そんな神なんか必要ない」と言っているかのように見えます。そのような世界の中で、今日のノアのように、まだ見ていない事柄を信じ、恐れかしこんで生きるということは、なんと難しいことでしょうか。確かに、ノアの信仰は特別素晴らしかったのだと思います。彼は一言も発することなく(反論することなく)、ただ粛々と神に従っているからです(※9章25節まで彼のことばは一言も出て来ません)。ただ、そんなノアであったとしても、やはり最後まで従い通すということは、神の憐れみ、恩寵なくしては、到底、不可能なことであったでしょう。私たちも同じですね。私は、毎年、年を取るたびに、そのような思いが強くなってきているように感じています。

<結論>

先日、大学時代の友人と、卒業以来、初めて会う機会がありました。実に38年ぶりの再会です。彼とは中学・高校も同じなんですが、高校生の時に彼がクリスチャンであるということを知って、大学時代に同じ「聖書研究会」で過ごした仲間です。彼は卒業後、日本を代表するような有名企業に就職し、昨年、60歳で定年延長することなく、スパっと辞め、現在は、アメリカのテキサス州に家族と住んで、大学で学んでいるそうです。本当に久しぶりの再会で、3時間ほど、積もる話に盛り上がったんですが、第三者的には、本当に恵まれた会社人生のように見えても、その言葉の端々に、彼なりの戦いと言いますか、悩み苦しみながらも歩んできた姿というものを垣間見せられたような気がしました。彼も言ってましたが、私とは何のしがらみも利害関係もありませんので、お互い本音で、これまで生きてきた中で苦しかったこと。挫折し、失望したこと。また、自分の弱さなども、ありのままに話せたと思うのですが、彼と別れた後、私が感じたことは、神様はよく、我々二人の信仰がなくならないように今まで導いてくださったなぁ、ということでした。二人とも、あとどれくらい生きるかは分かりませんが、これからも人生は続きますので、それぞれの戦いも続きますし、「まさか」という坂も、上りたくはないですが、上らされるかもしれません。しかし、たとえそうであったとしても、今日のノアのように、ただ、神から与えられた信仰によって歩み続ける、神の憐れみ、恩寵を感じながら歩み続ける、そのような者でありたいな、と切に願います。

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新聖歌

開会祈祷後:20番
メッセージ後:448番

聖書交読

詩編 3篇1~8節

2019年教会行事

1月15日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#52-2694

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