主にある喜びと平安

メッセージ

<ピリピ人への手紙 4章4節~13節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。

<ピリピ人への手紙 4章4節>

メッセージ内容


<序論>  
・前回に続いて「ピリピ人への手紙」からです。今日の開会聖句は、この手紙全体の主題ともされている聖句です。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい』(ピリピ4:4)。

2章18節や3章1節にも同じようなことばがあります。
パウロが、この手紙を通して、ピリピの人たちに何よりも言いたかったこと、強調したかったことは、主にあって喜ぶことであったと思います。また、11節、12節のことばには、何度読んでも唸らされます。「ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています」。私自身、とてもパウロのように、そこまで言い切ることはできないなぁと、いつも思わされます。皆さんもご存じのように、先日も、台風19号によって大きな被害が出ました。被災された方々の様子をテレビで見ながら、本当に大変だなぁ、自分だったらどうだろうかと、考えてしまいます。ただ、イエス様は、次のように約束して、弟子たちを励ましてくださいました。

『わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません』(ヨハネ14:27)。

このイエス様が言われた「わたしの平安」こそ、「主にある喜びと平安」ということだと思っていますが、今日は、「ピリピ人への手紙」を中心に、皆さんと一緒にみことばから聴きたいと願っています。

<本論>
1、いつも主にあって喜びなさい

先週のメッセージで、私たち人間は、理屈(神学)だけで生きているのではなくて、感情にも大きな影響を受けているということを、私自身の経験からお話しさせてもらいました。私たちが何かを決断したり、判断したりする時、後から振り返ってみて、とても合理的とは言えないような理由で決めてしまったなぁと思うことが、よくあるのではないでしょうか。今日のテーマである「喜び」というのは、まさに理屈ではなく感情の世界です。喜び、悲しみ、怒りなどなど。パウロは、いつも(喜び続けなさい)、と言っていますが、私たち人間に、果たしてそんなことが可能なのか?とても無理なように思えます。ただ、皆さんもお気づきのように、パウロは、ただ、喜べとは言っていないんですね。鍵になることばは、「主にあって(※新共同訳では、主において)」ということばだと思います。パウロは、この「主にあって」ということばを、手紙の中で40回以上も使っています。この短い「ピリピ人への手紙」の中にも8回も出てきます。つまり、パウロが言っている「喜ぶ」ということは、単なる「幸せな気分」というようなものではないのです。もし、そうであれば、いつも喜ぶということは難しいでしょう。なぜなら、私たちの感情は、周りの人たちや置かれている環境に依存している(結びついている)場合が多いからです。ですから、パウロが、「主にあって喜びなさい」というのは、そのように絶えず移り変わる他のものに依存した「喜び」ではなくて、いつも変わることのない主イエス・キリストとの人格的な結びつきにおける「喜び」ではないかと思うのです。
「ヨハネの福音書」15章5節に、次のようなイエス様のことばがあります。

『わたしはぶどうの木、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人にとどまっているなら、その人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがは何をすることもできないのです』(ヨハネ15:5)。

私たちクリスチャンは、死んでよみがえり、今も生きておられるイエス様との生きた人格的な結びつきの中で、あのぶどうの木と枝のようにしっかりとつながっているから、喜ぶことができるし、寛容な心でいることができるし(ピリピ4:5)、何も思い煩わないでいられるんですね(同4:6)。そして、その結果が7節です。

『すべての理解を超えた神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます』(同4:7)。

2、どんな境遇にあっても

ですから、パウロは今、ローマの獄中にあって、自分の処刑が近づいているという絶望的な状況の中で、この手紙を書いているのですが、不思議なことに、その文面には「喜び」が溢れているのだと思うのです。
実は、今回、初めて気がついたことですが、先週の説教で、ピリピの教会は、パウロが去ってからずっと今に至るまで彼の活動を支え続けてきた、とお話ししたんですが、そうじゃなかったんです。10節には、次のように書かれています。

『私を案じてくれるあなたがたの心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって大いに喜んでいます。あなたがたは案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです』(ピリピ4:10)。

つまり、ピリピ教会からの支援は、何らかの事情で一時的に途絶えていたようなんですね。しかし、パウロは、そのことに対して一切、恨みがましいことや、皮肉めいたことは言っていません。あなたがたは、(私のことを)案じてくれていたのですが、それを示す機会がなかったのです、と述べています。なぜ、彼は、そのように書くことができたのか。その理由は、最初にご紹介した11節以降に書かれています。

『乏しいからこう言うのではありません。私は、どんな境遇にあっても満足することを学びました。私は、貧しくあることも知っており、富むことも知っています。満ち足りることにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、ありとあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私を強くしてくださる方によって、私はどんなことでもできるのです』(同4:11~13)。

本当に、何度読んでも、すごいなぁ、自分もそのようになりたいなぁ、と思わされることばですが、今日のメッセージの最後に、この箇所から、私が示された事を皆さんにお話しして、メッセージを閉じたいと思います。

<結論>

パウロが、ここで書かれているような秘訣を心得ていると言い切れたのも、彼がイエス様との人格的なつながりの中で歩んでいたからだと思うのですが、イエス様との人格的なつながりと言われても、何か分かったような分からないような。具体的にはどういうことなのかピンとこないという方もおられると思います。それは、例えば、毎日、聖書を読むとか、いつも祈るとか、そんなことなのかな、と思われた方もおられるかもしれません。もちろん、それらのことも大切なことだと思います。ただ、私は、私たちがイエス様との人格的なつながりの中で歩むということを簡単に言うならば、それは、私たちが、いつも、イエス様のお顔だけを見つめながら歩むということではないかな、と思うんです。
「ルカの福音書」10章に、マルタとマリアの姉妹の話があります。マルタは、イエス様が自分の家に来てくださったので精一杯おもてなしをしたいと思い、色々と動き回っていました。ところが、姉妹のマリアは、ただじっとイエス様の足もとに座って、語られることばに聞き入っていたんですね。それを見たマルタは、イエス様に文句を言います。「イエス様。マリアが何にも手伝わないで、私にだけおもてなしをさせているのを、何とも思われないんですか。私の手伝いをするように、おっしゃってください」。しかし、イエス様は、そんなマルタに、次のように言われたんです。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアはその良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」(ルカ10:41,42)。

マルタは、善意からではありましたが、イエス様が語られることばに耳も傾けず(それはお顔も見ていなかったということだと思いますが)、あれやこれやと動き回っていました。その時に、彼女の心には「喜び」も「平安」もなくなっていたんです。このことは、私たちに大切なことを示してくれているように思えます。
私が尊敬する先輩牧師は、教会の皆さんが本当に献身的なご奉仕をささげてくださっている姿に接しても、できるだけ「ありがとうございます。尊いご奉仕に感謝します。助かります」とは、言わないようにしているのだそうです。私なんかよりもずっと謙遜な方なんですが、努めてそのようにしておられるんです。それは、教会の皆さんは、本当に善意から、熱心にご奉仕を(献金も)ささげてくださっていると思うのですが、それらのことは、牧師のために(牧師を喜ばせるために)しているわけではないからなんです。もちろん、ここにおられる皆さんは、そんなこと言われなくても分かっている、とおっしゃると思うのですが、往々にして、教会の中で起こる様々な人間関係の問題の根っこには、そのような思いが潜んでいるように、私は思うんです。ただ、私自身は、なかなか、その先輩牧師のようにはできなくて、つい「ありがとうございます。助かります。感謝します」と言ってしまうのですが・・・。まあ感謝するということは、決して悪いことではありませんし、日本人的にはそのほうがいいようにも思いますが・・・。私たちが見つめている先は、一体どこなのか。それは、私たちの信仰生活において、本当に大切だと思わされています。
私たちが、本当の意味で、主にある喜び、主にある平安を感じることができるのは、イエス様のお顔だけを見て歩んでいる時ではないかと、私は思います。そこには、牧師とか信徒とかの違いは関係なく、義務感や、やってあげるとかではなくて、お互いが自由にされた者として、自らが進んで選び取った十字架を背負ってイエス様に従うという、苦しいことかもしれませんけど、本物の喜びがあるのではないでしょうか。

『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい』(ピリピ4:4)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF99KB)

新聖歌

開会祈祷後:190番、
メッセージ後:363番

聖書交読

箴言 28章21~28節

2019年教会行事

10月23日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
新バージョン(脳トレ)がスタートしています。

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