<ヨシュア記 20章1節~9節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか。
<ヨハネの福音書 8章46節前半>
メッセージ内容
<序論>
・「ヨシュア記」後半の内容は、イスラエルの十二部族への土地の分割とヨシュアの告別説教です。13章1節で、神は年老いたヨシュアに対して、「占領すべき地は非常にたくさん残っている」と言っておられますので、まだ、実際には、カナン征服は道半ばといった状況ではありましたが・・・。イスラエルの十二部族というのは、ヤコブの十二人の息子たちから始まりましたが、唯一、土地の割り当てのない部族がありました。それは、レビ部族です。ですから、厳密には、彼らは十二部族の中には入っていないのですが、その代わりに、彼らは、代々、祭司の家系とされ、幕屋や神殿で仕えたのです。ただ、「民数記」35章1~8節を読むと、レビ部族にも、いくつかの町や放牧地が与えられたことが分かります。それは、それぞれの部族の相続地のうちにある42の町と、さらに6つの「逃れの町」でした。それでは、この「逃れの町」とは、どのような町だったのでしょうか?
モーセの十戒に、
『殺してはならない』(出エ20:13)
という戒めがありますが、その少し後に次のように書かれています。
『人を打って死なせた者は、必ず殺されなければならない。ただし、彼に殺意がなく神が御手によって事を起こされた場合、わたしはあなたに、彼が逃れることができる場所を指定する』(同21:12,13)。
この『逃れることができる場所』=『逃れの町』ということです。現代の法律(刑法)の言葉で言うと、「過失致死」に関する規定と言うことです(刑法199条・刑法210条以降)。その具体的なケースは、「申命記」19章5節で紹介されています。
<本論>
1、イスラエルの子ら、および彼らの間に寄留している者のため
この「逃れの町」は、ヨルダン川を挟んで東側に3つ、そして西側に3つ設けられました。今日のテキストの7、8節にそれらの町の名前が記されていますが、これら6つの「逃れの町」は、各部族の相続地の中にバランスよく配置され、イスラエル国内であればどこからでも、ほぼ一日で辿りつけるような距離に設けられました。
ただし、故意の殺人の場合には、どこに逃げても赦されることはありませんでした。
『血の復讐をする者は、自分でその殺人者を殺してもよい。彼に出くわしたときに、殺してもよい』(民数35:19)。
昔の日本にも「仇討ち・敵討ち」という制度がありました。これは、私的な復讐になりますので、現代では、「故意」であろうが「過失」であろうが、勿論、許されないことですが、聖書の時代には、それが認められていたのです。ただ、「加害者に殺意がなく神が御手によって事を起こされた」と認められる場合には、「逃れの町」まで逃げれば、その人の身の安全は守られるようになっていたということです。また、この制度は、イスラエル人に対してだけではなく、彼らの間に寄留している者(在留異国人)にも適用されることになっていました(ヨシュア20:9)。ある方は意外に思われるかもしれません。選民意識の強いイスラエルにしては、何と人種的偏見のない、公平な制度だなと。ただ、「ルツ記」などを読むと、当時でも、在留異国人に対する福祉制度のようなものがあったということが分かります(落穂ひろい)。これらの律法は、もしかすると、神が、イスラエルの人たちに対して、「お前たちも、かつて、あのエジプトで同じような立場(寄留者)であったではないか。そのことを決して忘れてはならない」ということで、お命じになられたのではないか、と思わされました。
2、大祭司が死ぬまでは
そして、「民数記」35章26、27節には、次のように書かれています。
『もしも、その殺人者が、自分が逃げ込んだ逃れの町の境界から出て行き、血の復讐をする者がその逃れの町の境界の外で彼を見つけて、その殺人者を殺すことがあっても、その人には血の責任はない』(民数35:26,27)。
つまり、誤って殺人を犯した者が守られるのは、あくまでも「逃れの町」にいる間だけであって、そこから一歩でも外に出てしまったら、復讐されても文句は言えなかったということです。
ただ、これだけですと、「逃れの町」に逃げ込んだ人は、一生、死ぬまで、そこから出ることができないということになってしまいます。ですから、もう一つ、決まりがあったんです。それが次の28節。
『その殺人者は、大祭司が死ぬまでは、逃れの町に住んでいなければならないからである。大祭司の死後に、その殺人者は自分の所有地に帰ることができる』(同35:28)。
つまり、大祭司が死ねば、その殺人者の罪は帳消しにされ解放されたわけです。
<結論>
大祭司というのは、レビ人の中でも特にアロンの子エルアザルの家系で、その最年長者が世襲で継承するということになっていました。大祭司には、年に一度、「贖罪の日」に、イスラエル全体の罪を贖ういけにえをささげるため、神殿の至聖所に入る義務がありました(レビ16章)。つまり、大祭司は、罪を帳消しにするために、毎年、毎年、そのような儀式を行わなければならなかったわけです。新約聖書においては、この大祭司は、聖なる油注がれた者として、イエス・キリストの「予型」と見なされ、その死はイエス様の十字架における死の「予型」とされています。その死によって、罪の束縛=「逃れの町」から解放される。つまり、罪が赦されるということですね。
『しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました』(へブル9:11,12)。
イエス様による永遠の贖いは、一回限りの完全な贖いであり、「逃れの町」とは異なり、「故意」とか「過失」とか関係なく、すべての人がその対象です。しかし、私たちは、本当にそのことが分かっているようで、意外と分かっていないということがあるのではないでしょうか。
今日の開会聖句は、あの有名な「姦淫の女」の赦しの後、イエス様がパリサイ人や律法学者たちと激しい論争を交わす場面で言われた言葉です。
『あなたがたのうちのだれが、わたしに罪があると責めることができますか』(ヨハネ8:46b)。
本当に、誰一人として、イエス様に罪があると責めることなどできないのですが、私は、このことばを、昨年、ある映画のワンシーンで目にしました。それは、大杉漣という俳優の最後の主演作品となった「教誨師」という映画でした。その映画の詳しい内容については省略させていただきますが、ある死刑囚が、教誨師の牧師(大杉漣)に一枚の紙きれを渡すんですね。そこにたどたどしいひらがなで、このことばが書かれていたんです。その死刑囚は教誨で信仰に導かれましたが、不幸な生い立ちのために読み書きは満足にできませんでしたし、最後は脳卒中を発症し、車椅子の状態でした。私は、そのことばを彼から受け取った時の牧師の顔が忘れられないんです。
その牧師は、決して上から目線で死刑囚に対して「改心しなさい」と言うような人ではなく、本当に親身になって、時には教誨師であるということさえ忘れているのではと思えるほど相手の立場に立って、彼らの心に寄り添おうとする人でした。私は、映画を観終わった後、そのことばの意味するところは何だったのかと、ずっと考えていました。それは観る人それぞれで違うと思いますが、私は、先程、申し上げたような、本当に親身になって死刑囚の心に寄り添おうとする彼のような牧師であったとしても、やっぱり心のどこかに、自分は裁く側、相手は裁かれる側なんだと、無意識の内にもそんな思いがあって、そのことを相手の死刑囚は敏感に感じ取っていたのかなと思ったんですね。もちろん、自分が犯した罪(犯罪)は償わなければなりません。それが死刑に相当するような罪であれば、死刑制度自体の是非についての議論はあるにしても、死刑に服さなければならないと思いますが、私も、一歩間違えれば(彼のような生い立ちだったら)、同じような罪を犯したかもしれない。「自分は決してそんなことはない」とは言えないと思うんですね。しかし、そのことに鈍感なんです。それは、犯罪のような罪だけでなく、聖書が言うところの罪に対しても同じではないかと思わされました。そして、もう一つあるんですが、実は、その牧師には、少年の頃のとても辛い思い出があり、ずっとその記憶に苦しんできたと言いますか、罪責感を持ち続けてきたという過去があったんです。もしかしたら、その死刑囚は、あなたは、もうこれ以上、そんな罪責感に苦しまなくてもいいよ。そのためにイエス様は十字架にかかって死んでくださったんでしょ。あなたは私にそのように教えてくれたじゃないか、と言いたかったのかなと思わされたんです。なぜなら、そのことばを読んだ後の牧師(大杉漣)の顔は、なぜかホッとしたように見えましたから。
最後に、「ヨハネの福音書」8章11節にある、姦淫の女に対するイエス様のみことばを読んで、このメッセージを閉じたいと思います。
『わたしもあなたにさばきを下さない。行きなさい。これからは、決して罪を犯してはなりません』(ヨハネ8:11b)。
新聖歌
メッセージ後:233番
特別讃美
ムジカンパーニュ
「主イエスを喜ぶことは」
「感謝します」
「見よ神の御殿」
「主は今生きておられる」(会衆讃美)
「月の光」
聖書交読
箴言 27章1~9節
2019年教会行事
10月9日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
いよいよ新バージョン(脳トレ)がスタートします!
#51-2679
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