<ヨシュア記 1章1節~9節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ、雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどころででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから。
<ヨシュア記 1章9節>
メッセージ内容
<序論>
・「ヨシュア記」は、出エジプトを導いたモーセの後継者ヨシュアが、イスラエルの民を率いて約束の地カナンを征服し、土地を十二部族ごとに分割するまでを描いています。そして、最後はヨシュアの決別説教で終わっています。ヨシュアとは「主は救い」という意味ですが、ギリシア語では「イエスース」と言います。「イエスース・クリストウ」。イエス様のヘブル語名が、このヨシュアなんです。
<本論>
1、モーセは死んだ
『主のしもべモーセの死後、主はモーセの従者、ヌンの子ヨシュアに告げられた。「わたしのしもべモーセは死んだ。今、あなたとこの民はみな、立ってこのヨルダン川を渡り、わたしがイスラエルの子らに与えようとしている地に行け』(ヨシュア1:1~2)。
モーセという人は、エジプトで奴隷となっていたイスラエルの民を、「出エジプト」、つまりエジプトから救い出した人物ですが、聖書は、モーセについて、次のように述べています。
『モーセのような預言者は、もう再びイスラエルには起こらなかった。彼は、主が顔と顔を合わせて選び出したのであった』(申命記34:10)。
先代が偉大過ぎると、後を継いだ二代目はしんどいですね。武田信玄と勝頼、豊臣秀吉と秀頼などなど。どちらも滅ぼされてしまいましたが、もちろん、これは後継者の責任というだけではなく、時代の変化や様々な要因が複雑に絡んでそのようになったわけですが(歴史は勝者が作る)、ただ、偉大な創業者の後を継いだ二代目というのは、色々な意味で、本当に大変だなと思わされます。
今日のヨシュアも、ある意味、そのような立場にあったわけです。しかしながら、神様が彼に命じられたことは、先代の偉業を、ただひたすら守り抜けということではありませんでした。全く新しい挑戦と言いますか、神は、立ってこのヨルダン川を渡り、イスラエルにとってのフロンティア、カナンの地に踏み出して行けとお命じになったんです。モーセに始まった出エジプトの旅は、むしろ、これからが(も)本番、いよいよ約束の地カナンに入って、屈強な先住民たちを追い払い、征服した土地を分割するという最後の大仕事が待っていたんです。私たちも、やはり、私たちにとってのフロンティア、新しい挑戦を忘れてはならないと思います。ただ、それは、数字的な教会の成長のためというような、この世的な理由によるものではありません。私たちの教団の信仰告白には、旧約の時代にモーセを通して律法が与えられた目的が書かれています。それは、神との調和のとれた関係に生きる契約の共同体を形成するため。そして、イスラエルが神の祝福を経験し、世の光としてすべての国々に仕えるためです。これは、イエス様が、律法の中で最も重要だと言われた二つの戒めとリンクしています(マタイ22:34~40他)。
『あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい』
とは、「神との調和のとれた関係に生きる契約の共同体を形成する」。そして、
『あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい』
とは、「彼らが神の祝福を経験し、世の光としてすべての国々の民に仕える」ということです。
ですから、「ヨシュア記」を読む時、私たちは、勘違いしてはならないと思います。それは、この物語は、あくまでも神がご自身の約束を実現するための、神の贖いの計画に基づいた特殊な出来事であるということです。何人も、神を我がものとすること、つまり自分を神の側に置いて他人を裁くことはできません。まして、この「ヨシュア記」を例にとって、「聖戦思想」を振りかざすことは、いかなる国、いかなる人にも許されていないのです。新約の恵みの時代に生きる私たちは、イエス様のシャローム、平和の福音を宣べ伝えていかなければならないと思います。
2、強くあれ。雄々しくあれ
さて、「ヨシュア記」に戻りますが、聖書は、今日の主人公ヨシュアについての若かりし頃のエピソードを記しています。それは、「民数記」13章にあるんですが、モーセがパランの荒野の宿営からカナンの地を偵察するために12人の族長を遣わした時、ヨシュアと、もう一人カレブだけが、「私たちはぜひとも上って行って、そこを占領しましょう。必ず打ち勝つことができます」と報告するんですね。他の10人は、カナンの先住民たちを見て、「無理です、駄目です、できません」と尻込みしてしまうのですが・・・。そのような、信仰の勇者とも呼べるヨシュアに対して、今日の箇所で、神様は繰り返し言っておられます。
『強くあれ。雄々しくあれ。あなたはわたしが父祖たちに与えると誓った地を、この民に受け継がせなければならないからだ。ただ強くあれ。雄々しくあれ。わたしのしもべモーセがあなたに命じた律法のすべてを守り行うためである。これを離れて、右にも左にもそれてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたが栄えるためである』(ヨシュア1:6,7)。
強くあれ。雄々しくあれ。開会聖句の9節にもありますが、繰り返すということは、強調しておられるということですね。神様は、ヨシュアの心の奥底にある恐れを見抜いておられたのではないでしょうか。やっぱり、さすがのヨシュアであっても、あのヨルダン川やカナンの地を目の前にして、たじろぐと言いますか、尻込みする気持ちがあったのだと思います。偉大なモーセがいなくなって、自分は、このうなじの強い連中を、どのように導いて行けばいいんだと。
そんなヨシュアに対して、神様が約束されたことは、ただ一つでした。これも繰り返されていますが、わたしがともにいるということでした。
『あなたの一生の間、だれ一人としてあなたの前に立ちはだかる者はいない。わたしはモーセとともにいたように、あなたとともにいる。わたしはあなたを見放さず、あなたを見捨てない』(同1:5)。
『わたしはあなたに命じたではないか。強くあれ。雄々しくあれ。恐れてはならない。おののいてはならない。あなたが行くところどこででも、あなたの神、主があなたとともにおられるのだから』(同1:9)。
<結論>
今日の説教題は、「ともにおられる神」とさせていただきましたが、昨年のクリスマスの礼拝で、「マタイの福音書」から「ヨセフが見た夢」と題してお話しさせていただきました。
ヨセフは、許嫁のマリアと結婚する前、彼女が聖霊によって身ごもっていると分かって、悩み、苦しみます。そして、彼が考えに考えた末に出した結論は、マリアをさらし者にしないために、ひそかに離縁するということでした。しかし、ヨセフがそんなことを思い巡らしていた時、主の使いが夢に現れて次のように告げるのです。
『ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです』(マタイ1:20,21)。
著者であるマタイは、それらの出来事を記した後、旧約の「イザヤ書」から引用して、次のように書いています。
『「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと、「神が私たちとともにおられる」という意味である』(同1:23)。
その後、ヨセフは、御使いに命じられた通りにマリアを妻として迎え入れるのですが、今日の主人公ヨシュアとは違って、ヨセフのその後の歩みについては、聖書は僅かなことしか記していません。恐らく、余り目立たない、地味な人生を送ったのではないでしょうか(もっとも、この一点だけでも、十分にドラマティックなんですが)。ただ、ヨセフもまた、今日のヨシュアと同じように、「神が私たちとともにおられる」という信仰に生き、死んでいった人であったと思います。彼らには、未来に向けての確かな保証と呼べるようなものは何一つありませんでした。目の前にあった問題も、そのままでした。けれども、彼らは、一歩、踏み出して行ったのです。ともにおられるという神の約束を信じて。
新聖歌
メッセージ後:355番
特別讃美
MB武庫川教会 スピリッツの皆さん
「よろこびの賛美」
「あなたは」
「あなたのみことばは」
「求めて」
「どんな時でも」
聖書交読
箴言 17章1~10節
2019年教会行事
9月4日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#51-2674
Comments are closed