<エゼキエル書 24章15節~27節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
こうして、あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知る。
<エゼキエル書 24章27節後半>
メッセージ内容
<序論>
・「エゼキエル書」からの四回目です。「エゼキエル書」は「エレミヤ書」とは違って、ほぼ年代順に書かれているということは既にお話ししましたが、大きく分けると三つの時代に区分することができます。1~24章までは、バビロン軍がエルサレム包囲する前(前期)、25~32章まではエルサレム包囲中(中期)、そして、33~48章まではエルサレム陥落後の預言なんです(後期)。ですので、今日のテキストの24章は、バビロン軍によるエルサレム包囲戦がいよいよ始まる、その時になされた預言と言えます。そのような緊迫感と申しますか、カタストロフィ(大惨事)がひたひたと迫ってくる時代背景を感じながら、皆さんと共に見てゆきたいと願っています。
<本論>
1、平和の民
『第九年の第十の月の十日、私に次のような主のことばがあった』(エゼキエル24:1)。
エゼキエルが預言者としての召しを受けたのは第五年(紀元前593年)でしたので、それから四年後ということになります。つまり、紀元前589年です。バビロンによるエルサレム陥落が紀元前587~586年頃と伝えられていますので、今日の箇所は、そこから数えて2年前ということになります。実は、この時、エルサレムはすぐに落とされたわけではなく、約2年間、バビロン軍によって周りを包囲され、陥落したと伝えられています。エルサレムは、北側を除いて、三方が谷に囲まれた天然の要塞でしたので、いかに精強を誇ったバビロン軍でも、簡単に攻め落とすことはできなかったんですね。その時の様子が、Ⅱ列王記25章にあります。
『ゼデキヤの治世の第九年、第十の月の十日に、バビロンの王ネブカドネツァルは、その全軍勢を率いてエルサレムを攻めに来て、これに対して陣を敷き、周囲に塁を築いた。こうして都はゼデキヤ王の第十一年まで包囲されていた』(Ⅱ列王25:1~2)。
そして、この2年に渡る籠城戦は、エルサレムの住民に悲劇をもたらします。
『第四の月の九日、都の中で食糧難がひどくなり、民衆に食物がなくなった』(同25:3)。
いわゆる「兵糧攻め」ですね。前回の説教で「哀歌」の3章からお話ししましたが、「哀歌」4章に、その時のエルサレムの情景を連想させる歌があります。
『ジャッカルさえも乳房をふくませて、その子に乳を飲ませる。しかし、娘である私の民は、荒野のだちょうのように無慈悲となった。乳飲み子の舌は渇いて上あごにへばり付き、幼子たちがパンを求めても、割いてやる者もいない』(哀歌4:3~4)。
さらに、9節。
『剣で殺される人は、飢えで殺される者たちより幸せであった。その者たちは、畑の実りがないために、痩せ衰えて死んでいった。あわれみ深い女たちが、自分の手で自分の子を煮た。娘である私の民が破滅したとき、それが彼女たちの食物となった』(同4:9~10)。
ある「註解書」は、この箇所について、「文字通りにそうしたのではなく、極度な飢えの状態を表現している」と解説していました。今年も、もうすぐ「終戦記念日」がやって来ます。テレビや新聞などで「戦争を風化させるな」と様々な体験談が紹介されていますが、本当に、戦争の悲惨さ、残酷さというものは、体験した方でなければ分からない、言葉で表現しきれないものだと思わされます。
2、妻の死
さて、「エゼキエル書」に戻りたいと思いますが、今日の24章の前半で、神様は、前回もお話ししたような象徴的表現を用いて、エルサレム滅亡の様子を語られます。『鍋』はエルサレムを、『肉片』はその住人を、そして、『さび』は彼らの罪を象徴するものです。神は言われます。鍋を火にかけ、さらには、鍋を空にして、その中の汚れを溶かし、さびがなくなるようにせよと。しかし、12節。
『しかし、その骨折りは無駄であった。そのひどいさびはそれから落ちず、そのさびは、なお火の中にあった』(エゼキエル24:12)。
そして、今日のテキストである24章後半には、エゼキエル自身に起こった悲惨な出来事が記されています。それは、彼が愛してやまなかった妻の死でした。
先程、象徴的表現と申し上げましたが、24章前半では、鍋とか肉片とかのことばによって神のみこころが示されたのですが、この後半では、ことばではなく、行為によって、言い換えればエゼキエル自身の体験を通して、みこころが示されたということです。神様は、時に、このようなことをされる方ですが、これは、本当に辛く、厳しいことです。
旧約で同じような経験をした預言者に、ホセアという人がいます。彼は、姦淫の女ゴメルと結婚するようにと、神から命じられました。それは、そのことを通して、神がいかにイスラエルを愛しているかということを示すようにということだったんです。牧師も、時に、講壇から語ったことばがブーメランのように自分のところに返ってくることがあります。
<結論>
さて、神は、エゼキエルに対して、わたしは一打ちで、あなたの目の喜び(愛する者)を取り去る。しかし、嘆くな、泣くな、涙を流すな、と言われました。そして、喪に服してはならない。頭にターバンを巻き付け、足に履き物をはけ。口ひげをおおってはならない。人々からのパンを食べてはならないと(エゼキエル24:16,17)。
これらの行為は、当時の人々の常識からすると、ありえないことでした。そのようなエゼキエルの姿を見て、人々は尋ねます。
「あなたがしているこれらのことは、私たちにとって何を意味するのか、説明してくれませんか」(同24:19)。
そして、エゼキエルは、それらの行為が何を意味するのかを説明するのですが、それは、今、バビロンで囚われの身となっているあなたがたも、やがて祖国が亡ぼされたという知らせを聞くだろう。その時、あなたがたは、私と同じような行動をとるだろうということです。この預言が語られた時点では、バビロン捕囚の民も、なんだかんだ言っても、神様は結局、自分たちの祖国を救ってくださるにちがいないというような、勝手な希望のようなものを持っていたと思います。しかし、そのような夢も、希望も、跡形もなく消え去ってしまうということを、エゼキエルは、自分自身の悲惨な経験を通して伝えたのです。23節の最後には、次のようなみことばがあります。
『ただ、自分たちの咎のゆえに朽ち果て、互いに嘆き合うようになる』(同24:23b)。
その時、初めて、あなたがたは自分たちの罪を、本当の意味で知ることになるだろう、とエゼキエルは言っているのではないでしょうか。
そして、私は、神がエゼキエルに対して、このような理不尽極まりない、残酷なことをお命じになったというのは、もしかすると、神は、それほどまでにエルサレムを愛しておられる。そのエルサレムが失われてしまうことは、自分にとっても、最愛の妻との死別と同じように、耐え難い痛みなんだということを、どうしても伝えたかったからではないかと思わされました。
『こうして、あなたが彼らのしるしとなるとき、彼らは、わたしが主であることを知る』(同24:27b)。
バビロン捕囚の民は、エゼキエルの悲劇的な経験を通して、神がどのようなお方であるかということを知りました。それと同じように、私たちは、イエス・キリストの十字架を通して、神がどのようなお方であるか、どれほど私たちのことを愛しておられるのかということを知るのです。
最後に、岩淵まことさんの「父の涙」という歌の歌詞をお読みして、今日の説教を閉じたいと思います。
「心にせまる父の悲しみ 愛するひとり子を十字架につけた 人の罪は燃える火のよう 愛を知らずに今日も過ぎて行く
十字架からあふれ流れる泉 それは父の涙 十字架からあふれ流れる泉 それはイエスの愛」
新聖歌
開会祈祷後:366番、
メッセージ後:438番
聖書交読
箴言 8章1~11節
2019年教会行事
今週のオリーブ・いきいき百歳体操はお休みです。
#51-2671
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