そのとき、ケルビムは飛び立った

メッセージ

<エゼキエル書 10章15節~22節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

そのとき、ケルビムは飛び立った。それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。

<エゼキエル書 10章15節>

メッセージ内容


<序論>  
・「エゼキエル書」からの二回目です。前回の説教では、第一回目の「バビロン捕囚」紀元前597年の第一回目のバビロン捕囚で捕囚民となり、バビロンに連れて行かれたエゼキエルが、五年目の年(紀元前593年)に、ケバル川のほとりテル・アビブという居留地で、預言者として召された場面からお話ししました。今日の場面は、8章からの続きになるのですが、8章1節には、

『第六年の第六の月の五日、私が自分の家に座っていて、ユダの長老たちも私の前に座っていたとき、神である主の御手がそこで私の上に下った』

とありますので、前回、お話しした時から数えて1年2ヶ月後のことになります。エゼキエルは、テル・アビブの自宅で、同じく捕囚民として連れて来られたユダの長老たちと座っていました。エゼキエルという人は、元々、祭司でしたので、長老たちは彼のもとで律法を学んでいたか、何か政治的、宗教的問題を相談するために集まっていたのではないかと思われます。その時、再び、神の啓示がエゼキエルに臨みます。8章2節に書かれている幻は、1章の幻、特に26、27節の幻と関連があるようです。

『彼らの頭上、大空のはるか上の方には、サファイアのように見える王座に似たものがあり、その王座に似たもののはるか上には、人間の姿に似たものがあった。私が見ると、その腰と見えるところから上の方は、その中と周りが琥珀のきらめきのように輝き、火のように見えた。腰と見えるところから下の方に、私は火のようなものを見た。その方の周りには輝きがあった。』(エゼキエル1:26,27)。

これは、幻(ビジョン)を通して現された神の姿だと考えられています。そして、この1章で現れた神は、これからエルサレムで起こることを、幻によってエゼキエルに見せるのです。

<本論>
1、「ねたみ」という像

まず、8章では、その時代にエルサレムの神殿で行われていた偶像崇拝の様子が示されます。エゼキエルは、ユダの王エホヤキンや他の指導者たちと共にバビロンに連れて来られましたが、祖国ユダ、そしてエルサレムは完全に滅びてしまったわけではありませんでした。傀儡の王ゼデキヤ(エホヤキンのおじ)が立てられ、あのソロモン王が建てたという神殿もそのまま健在でした。しかし、人々の心は、真の神様から遠く離れてしまっていたのです。5節に、

『「ねたみ」という像』

とありますが、これは、出エジプトの民がカナンに入って以来、長年に渡って崇拝してきたアシェラ像(カナン土着の豊穣神)のことであると思われます。また、14節に出てくる

『タンムズ』

とは、バビロンの神で、自然の死と再生とを象徴するものでした。女たちが泣きながら座っていたのは、死んで地下に下ったタンムズを呼び戻すための儀式であったそうです。そして、16節の最後にある、

『太陽を拝んでいた』

とは、今の日本でも見られることですが、当時のバビロンやエジプトで盛んに行われていたという自然崇拝のことです。神様は、これらの偶像崇拝の様子を、幻によってエゼキエルに見せたんですね。
現代で言えば、どうでしょうか?偶像とは、英語では「アイドル」ですが、私たちの心を虜にし、支配するものを意味します。現代における最強の偶像、それは、アシェラ像ではなく、タンムズでも、太陽でもありません。それは、お金ではないでしょうか。

2、額にしるしをつけよ

そして、9章では、7人の男の幻が現れ、北に面する上の門を通ってエルサレムの町を破壊します。この7人は御使い(天使)を表しています。そして、北に面する上の門を通ってというのは、神の審判が北から来る、つまり、バビロンから来ることを暗示しています。

『ケルビムの上にあったイスラエルの神の栄光が、ケルビムから立ち上り、神殿の敷居に向かっていた。』(エゼキエル9:3)。

これは、神の臨在(インマヌエル)が、ケルビムから去ったことを意味しています。

『ケルビム』

ケルビム
(画像出典:https://charles-e-mccracken-ministries.org/2016/12/04/cherubim-ezekiel-113-14/)

とは、辞書によると、「旧約聖書で、神殿に仕える天使。四枚の翼を持つ人、獅子、牛などの姿で描かれる。智天使。」(大辞林)。あの、映画「インディジョーンズ 失われたアーク」に出てきたアーク(契約の箱)の上に置かれていたのがケルビムです。
そして、その後で見せられた幻は、この時から6年の後、紀元前586年にあった第二回目のバビロン捕囚の様子を表したものでした。通常、バビロン捕囚というと、この第二回目の出来事を指します。エルサレムの町と神殿は完全に破壊され、ゼデキヤ王は両目をつぶされ、青銅の足枷をつけられてバビロンに連れて行かれるのです(Ⅱ列王記25章・旧約P700)。この時を境に、ユダ(イスラエル)の国は、この地上から完全に消滅してしまうんですね。

3、そのとき
今日のテキストの10章15節以降には、神の栄光がエルサレムの神殿から去る時の様子が描かれています。

『そのとき、ケルビムは飛び立った。それは、私がかつてケバル川のほとりで見た生きものであった。ケルビムが行くと輪もそのそばを進み、ケルビムが翼を広げて地上から上るとき輪もそのそばを離れず、向きを変えなかった。ケルビムが立ち止まると輪も立ち止まり、ケルビムが上ると輪もいっしょに上った。生きものの霊が輪の中にあったからである。主の栄光が神殿の敷居から出て行って、ケルビムの上にとどまった』(エゼキエル10:15~18)。

この幻がエゼキエルに示された紀元前592年頃のエルサレムの雰囲気、町を覆っていた空気は、不思議なことに、楽観論であったようです。多くの(偽)預言者たちが、人々の耳に心地よい預言を語っていました。「やがてバビロンの脅威は去り、我々は勝利するだろう。」「なぜなら、我々は、選ばれた民族、(戦前・戦中の日本で言うならば)神州不滅の民なんだから。」「さあ、今こそ、あのエジプトと手を結んで、バビロンを追い払おう」等々。彼らは、厳しい現実を直視しようとはせず、無責任に大衆に迎合するようなことばかりを語っていたんですね。
ただ、私たちは、この箇所を読むときに、覚えておかなければならないことがあると思います。それは、エゼキエルが語ったことは、決して単純な悲観論ではなかったということです。彼には、目の前の現実を直視し、祖国ユダが滅ぶことは、人間には変えることができない神様の御心である、という確信があったと思います。しかし、それと同時に、エゼキエルは、その先にある確かな希望をもはっきりと見据えていたのです。これは、神の助けを祈りつつも、変えることのできないことについては、それを冷静に受け止めることが、そして、変えることのできることについては、それを変える勇気を持つことが大切だということを、私たちに示してくれているのではないでしょうか。

<結論>

『すると、ケルビムは翼を広げて、私の目の前で地上から上って行った。出て行くとき、輪もそのそばについて行き、主の宮の東の門の入り口で止まった。イスラエルの神の栄光が彼らの上にあった。』(エゼキエル10:19)。

再びケルビムの上にとどまった主の栄光は、ケルビムとともに神殿から出て行きます。あの、目も眩むような壮麗な神殿と歌われたソロモンの神殿。しかし、今や、主の栄光は飛び立ってしまったのです。人間の目にはどんなに立派に見えたとしても、それは、ただの建物となってしまったということです。このことも、私たちに大切な教訓を与えてくれているように思います。
昨年の9月、私たちの教団の石橋教会が献堂式を行いました。先日、その時に作成された記念誌が送られてきたんですが、その中に、石橋教会副牧師の南野浩則先生が、「新会堂への期待」と題して次のように書いておられました。

「石橋キリスト教会は、自らの建物を持つことを決断してきた教会です。それは「あたりまえ」なことかもしれませんが、新約聖書は建物に教会の最も大切な部分を置いてはいません。これは、教会の建物について考えるとき、非常に重要だと思います。しかし、建物を持つことを新約聖書は禁じてはいません。むしろ、人々が集まることを熱心に求めています。つまり、教会堂を建てるとするならば、神の民にふさわしい建物であるべきで、そのように用いるべきであることになります。(中略)キリスト教は神の啓示の「時間」についてはよく考えてきたと言われています。預言と成就の関係も時間です。その一方で、伝統的に「場所」については関心を示さなかったとも言われています。しかし、聖書自体は神の啓示の場所とその意義について多くを記しています。新たな建物の使い方などを実用的に考えなければなりませんが、神の言葉と行動を発信する新たな場所が与えられたことの意味を探ることも必要だと考えます。」

新約の「ヨハネの福音書」4章で、イエス様は興味深いことを言われました。所謂、サマリアの女との場面です。サマリア人は、外国人との混血の人たちでしたので、ユダヤ人は宗教的な理由で「汚れる」として交際しなかったのですが、イエス様は、井戸の傍らで一人のサマリア人の女に話しかけられました。

『わたしに水を飲ませてください』

と。そして、その女性は、イエス様を救い主として信じるんですが、その中で、次のようなやり取りががあるんです。

『彼女は言った。「主よ。あなたは預言者だとお見受けします。私たちの先祖はこの山(ゲリジム山)で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。』(ヨハネの福音書4:19~24)。

教会とは、特定の建物や場所のことではない、と私は思います。私たちが、御霊と真理によって礼拝を献げるとき、そこが教会、つまり、主の栄光が臨まれる場所となるのです。

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新聖歌

開会祈祷後:286番、
メッセージ後:382番

聖書交読

箴言 3章1~12節

2019年教会行事

7月24日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2668

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