緊急情報
今朝、千里山駅交番で発生した事件を受け、6月16日(日)に予定しておりました「主日礼拝」を中止いたします。教会員の皆さまにおかれましては、安全確保のため、施錠して外出をお控えください。
本日はそれぞれの場所で礼拝を捧げていただきますようによろしくお願いいたします。
砂山師が、本日、教会で語る予定であったメッセージを公開しました。
皆様のみことばの糧としてどうぞ用いてください。
<ヘブル人への手紙 11章39~12章2節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
<ルカの福音書 9章23節>
メッセージ内容
<序論>
・先週の説教で、この手紙について簡単にご説明しました。この手紙は、伝統的には、パウロが書いたとされてきましたが、手紙の中にパウロの名前は一切出てきませんし、現在では、多くの研究者は著者不明としています。一方、宛先は、内容的に見て、主に離散のユダヤ人(へブル人)を想定していると思われます。そして、書かれた目的は、信仰から離れようとしたり、昔の信仰(ユダヤ教)に戻ろうかと迷っている人々を励まし、イエス・キリストへの信仰に留まるようにと促すためであったと考えられています。11章1節には次のように書かれています。
『さて、信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです』(へブル11:1)。
逆説的になるかもしれませんが、それほど、見えない神様を信じ続けていくということは、私たち人間とって難しいことなんだよ、と言っているように思えます。そして、この手紙の著者は、その後で、『昔の人たち』=旧約時代の信仰者たち、先人たちの生き様を紹介しています。それは、どんな立派な教えを百万遍述べるよりも、そのほうが説得力があるし、分かり易いと考えたからではないでしょうか。
今朝は、「自分の十字架」と題して、皆さんと一緒にみことばから聴きたいと願っています。
<本論>
1、信仰者列伝
さて、今、お話ししましたように、この手紙の著者は、11章の4~31節で、旧約聖書の「創世期」に登場するアベルから「ヨシュア記」の遊女ラハブまで、9人の人物を取り上げて、これらの人たちの生き様と言いますか、この世で様々な試練に遭いながらも、信仰によって、どのようにその試練を乗り越えていったのかということを述べます。
よく「へブル書の信仰者列伝」とも呼ばれる箇所ですが、確かに、「伝記」というのは本当に面白いです。生きたお手本として、私たちに多くのことを気づかせてくれま
す。私は、昔、海音寺潮五郎という人が書いた「悪人列伝」という本を読んだことがあるのですが、その本には、古代篇の蘇我入鹿から始まって、近代篇の井上馨まで、合計24人の「悪人」と呼ばれる人たちが登場します。ただ、「歴史は勝者が作る」と言われますが、そこで描かれている人たちの伝記を読んで、単純に善人、悪人というように割り切ることのできない、一人の人の中に存在する多面性、奥深さというものを感じました。
そろそろ聖書に戻りたいと思いますが、私は、この手紙に記されている9人の信仰者列伝も、ある意味、同じように感じています。特に、著者が多くのスペースを割いているのは、やはりアブラハムです。「創世記」12章に登場する人物です。
『主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった』(創世記12:1~4)。
アブラハムは、ハランという地で、決して貧しい暮らしをしていたのではありませんでした。それは、この後の5節を読めば分かります。彼は、ハランで、平和で満ち足りた暮らしを送っていたようです。しかし、彼は、神のことばを聞き、それが自分に語られたものだと受け止め、出て行ったのです。神は、「わたしが示す地へ行きなさい」とは言われましたが、具体的な場所までは示されませんでした。「へブル人への手紙」11章8節には、次のように書かれています。
『信仰によって、アブラハムは相続財産として受け取るべき地に出て行くようにと召しを受けたときに、それに従い、どこに行くのかを知らずに出て行きました』(へブル11:8)。
この、どこに行くのかを知らずに出て行ったというところに、アブラハムの信仰がありました。それでは、そのようにして神の召しに応えて出て行った彼の歩みはどうだったでしょうか?後に「信仰の父」とまで呼ばれるアブラハムも、様々な失敗を繰り返しています。先程、お読みした「創世記」12章10節以降には、早くも、彼が犯した過ちが記されています。アブラハムは、自分の生命を守るために、妻サライに向かって、エジプトでは妹だと言ってほしいと頼むんですね。これ以外にも、アブラハムは多くの過ちを犯しました。それは、今の私たちから見ても、とてもお手本になどできないと思ってしまうほどの酷い過ち・道徳的な罪でした。しかし、彼は、その中で、何度も何度も失敗を繰り返しながら、最後まで神に、神の約束にしがみついていったのです。
先週、マルティン・ルターの
「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ」
という言葉をご紹介しました。元々、ルターは、カトリックの、有能な、将来を嘱望された司祭でした。そんな彼が、はからずも「宗教改革」という大変革の矢面、先頭に立たされることになるわけです。迷うこともあったでしょう。厳しい批判に晒され、恐れを抱くことも、一度や二度ではなかったと思います。ですから、「大胆に」という言葉は、そんな自分自身への気持ちも込められた言葉ではなかったかと思うんです。ある方が、次のように書いておられました。
「信仰の世界においては、失敗を過度に恐れる必要はない。大事なことは、失敗なく従うことではなく、ただ従うことなのだ」
と。確かに、何もしなければ失敗もしないでしょう。しかし、それでは、本当に従うこともできないのではないでしょうか。ルターも、そうだったと思いますが、アブラハムも、失敗の上に恥をかき、罪を重ねても、なお神の約束にしがみついていったのです。だから、彼は「信仰の父」と呼ばれたのです。あの、新約聖書に登場するペテロもそうですね。先週もお話ししましたように、聖書には、そんな人たちがたくさん登場します。ただ、共通していることは、失敗しても、もう一度立ち上がったということです。神の恵み、恩寵によって。
2、地上では旅人
『これらの人たちはみな、その信仰によって称賛されましたが、約束されたものを手に入れることはありませんでした。神は私たちのために、もっとすぐれたもの(約束されたもの)を用意しておられたので、私たちを抜きにして、彼らが完全な者とされることはなかったのです』(同11:39,40)。
少し前の13節にも、同じようなことが書かれています。
『これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました』(同11:13)。
大切なこと、どうしても伝えたいことは、繰り返して言う。基本中の基本です。
私は、この「地上では旅人であり、寄留者」ということばが好きなんですが、だいぶん以前に、露の五郎兵衛さんという方の落語を見に行ったことがあります。「五郎は生涯未完成」という著書の出版記念の落語会だったと記憶しています。私たちの信仰の歩みも、生涯、未完成です。それが、完成するのは、今ではありません。
『こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか』(同12:1)。
私も、先週の説教の最後に話したことを繰り返させていただきたいと思います。私たちの信仰のゴール、救いの完成は、今ではなく、来るべき時、終末の時なんです。
<結論>
そして、そのために大切なこと、先週は10章から三つお話しました。まず一つ目は、希
望を告白し続けるということ。二つ目は、愛されている者として相応しく歩むということ。そして、三つ目は、共に集まって励まし合うということです。
今朝、その三つに、一つの大切なことを付け加えさせていただきたいと思います。それは、12章2節です。
『信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです』(同12:2)。
イエス様から目を離さないでいなさい。あの十字架にかかられたイエス様に目を注ぎ続けなさいということです。
本日の開会聖句は、有名なイエス様のことばです。
『イエスは皆に言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい』(ルカ9:23)。
本当に厳しいことばですが、皆さんは、「自分の十字架を負って」ということばを聞くと、どのようなことを連想されるでしょうか?生まれつきのハンデ?病気や障害、或いは貧困など?一般的には、そのような意味で使われていると思います。しかし、ここで言われている「自分の十字架」というのは、そのような意味ではありません。信仰者にとっての十字架とは、逃げることができる、避けることができるのに、自ら選んでこれを背負っていくことだと思います。たとえそれが、どんなに小さな十字架であったとしても、自分には絶対に無理と思えるような十字架であったとしても、これを自分に語られた神のことばとして受け止め、背負っていくときに、あのアブラハムのように、主の祝福に預かる者となることができるのです。
最後に、マタイ、マルコ、ルカの三つの福音書の中で、ルカだけが「日々」ということばを付け加えています。それは、一日一日、その日の分の十字架を背負ってということだと思います。私たちは、明日の分まで、或いは、一年先、二年先の分まで背負おうとすると、本当に苦しくなってしまいます。今日、一日の十字架を背負っていけばいいんですね。祈りましょう。
新聖歌
開会祈祷後:334番、
メッセージ後:396番
聖書交読
詩篇 148篇 1~14節
2019年教会行事
6月19日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#51-2664
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