新しい生ける道

メッセージ

<ヘブル人への手紙 10章19~25節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました。

<へブル人への手紙 10章20節>

メッセージ内容


<序論>  
・この手紙を書いたのは誰か?或いは、いつ、どこで書かれたのか?残念ながら、これらのことは、はっきりと分かっていません。ただ、内容から見て、この手紙の宛先(受取人)は、離散(ディアスポラ)のユダヤ人と思われます。クリスチャンになってある程度の年数は経っているようですが、信仰的には「いまいち」と言いますか、5章12節を見ると、『あなたがたは、年数からすれば教師になっていなければならないにもかかわらず、神が告げたことばの初歩を、もう一度だれかに教えてもらう必要があります。あなたがたは固い食物ではなく、乳が必要になっています』とあります。「残念!」という感じですかね。更に、6章5,6節には、次のように書かれています。『神のすばらしいみことばと、来るべき世の力を味わったうえで、堕落してしまうなら、そういう人たちをもう一度悔い改めに立ち返らせることはできません。彼らは、自分で神の子をもう一度十字架にかけて、さらしものにする者たちだからです』。厳しい忠告とも言えるようなことばです。これは察するに、この手紙を読んでいる人たちの中に、信仰から離れてしまう者や、かつての信仰(ユダヤ教)に逆戻りしようとする者たちもいたということだと思います。著者は、そのような信仰の停滞期(?)を迎えている人々を励まし、信仰にとどまるようにと、繰り返し勧めています。そして、イエス様の救いは、旧約(ユダヤ教)の祭儀よりもはるかに優れたものであるということを、丁寧に説明します。特に、8章からは、旧約と新約、旧い契約と新しい契約との違いが対比され、詳しく述べられています。また、この手紙全体を貫いているテーマは「キリスト論」と言えますが、特に8~10章では、キリストによる贖罪が強調されています。

<本論>
1、大胆に

最初に

『こういうわけで』(へブル10:19a)

とあります。それは、10章の前半に書かれている内容を受けてという意味です。

『律法には来るべき良きものの影はあっても、その実物はありません。ですから律法は、年ごとに絶えず捧げられる同じいけにえによって神に近づく人々を、完全にすることはできません』(同10:1)。

この手紙の著者は、5章から、大祭司となられたキリストについて書いています。それは、人間(レビ族)の大祭司とは全く違う、永遠に存在する、完全な大祭司であるということです。人間の大祭司は、年に一度、エルサレム神殿の一番奥の至聖所というところに入って、罪を贖うためのいけにえ(動物の血)を捧げたわけですが、イエス様は、動物の血ではなく、ご自身の聖なる血を、いけにえとして捧げてくださった。そのことによって、永遠の、完全な贖いを成し遂げてくださったということです。それは、本当に、ただ一度だけの、贖いであったわけです。
こういうわけで、私たちはイエスの血によって大胆に聖所に入ることができるようになったわけです。マタイ、マルコ、ルカの福音書は、イエス様が十字架の上で死なれた時、神殿の幕が真っ二つに裂けたと記しています。当時、エルサレム神殿の至聖所と聖所の間には大きな垂れ幕があり、至聖所には大祭司以外は入ることができませんでした。その幕が真っ二つに裂けたということは、イエス様の血によって、隔ての幕は取り除かれ、神様のご臨在を象徴する場所、恵みの場に、私たちも大胆に入ることができるようになったということですね。

『イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのために、この新しい生ける道を開いてくださいました』(同10:20)。

新しい生ける道とは、そのように、神様と私たちとの関係が、親しい調和のとれた関係へと回復されたということだと思います。
皆さんはいかがでしょうか?日々、新しい生ける道を歩んでおられるでしょうか?そして、大胆に至聖所に入っておられるでしょうか?大胆と聞いて、私は、あの宗教改革の端緒を開いたマルティン・ルターの有名な言葉を思い出しました。

「キリスト者よ、大胆に罪を犯せ。大胆に悔い改めて大胆に祈れ」。

強烈な言葉ですね。気の弱いクリスチャンなら、卒倒してしまうかもしれません・・・。ルターが、これほどまでに、「大胆」という言葉を繰り返したのは、なぜでしょうか?それは、ルターに聞いてみないと分かりませんが、先週、MB70周年準備委員会の講演会の話をしました。それは「倫理」に関することで、「キリスト者の生き方について考える」ということがテーマでした。以前、読んだ本に、次のようなことが書かれていたのを思い出しました。それは、スイスの精神科医ポール・トゥルニエという人のことばです。彼は、聖書に登場する人物には、人殺し、嘘つき、嫉妬深い人、裏切り者、高慢な者、姦淫を犯した者、暴徒、そして売春婦などがいると指摘した後、次のように言います。

「聖書ではあくまで宗教的なものにアクセントが置かれているのであって、決して道徳的なものにアクセントが置かれているのではないということなのです。宗教とは、神とその恩恵を情熱的に追求することを意味します。これに反して道徳主義とは、自分自身を追求することを意味します。別の言い方をするなら、道徳主義とは、善意を自分の力で識別し、あらゆる過ちから自分で自分の身を守ることを自分に要求するということです。こういう人間は、自分は間違っていないだろうかと始終びくびくしながら、真面目一点張りに、あらゆる楽しみを断念します。この態度が極端になると、終いには神も必要ないし、神の恩恵もいらないということになるのです。」

私たちも、長い信仰生活の中で、神様とその恩恵を情熱的に、大胆に追求するのではなく、自分自身を追求するような生き方になってはいないでしょうか?自分に基準を設けて、それに合わないと思われる人たちを裁いてはいないでしょうか?一度、吟味してみる必要があるかもしれません。

2、真心から

『また私たちには、神の家を治める、この偉大な祭司がおられるのですから』(同10:21)。

イエス様は、神の家を治める(支配する)偉大な大祭司となられました。神の家というのは、現代で言えば、直接的には「教会」を指していると思いますが、先週、お話ししましたように、究極的には、被造物世界全体を指していると思います。

『万物を彼の足の下に置かれました。」神は、万物を人(彼)の下に置かれたとき、彼に従わないものを何も残されませんでした』(同2:8a)
『イエスは死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠を受けられました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです』(同2:9b)。

繰り返しになりますが、ですから、私たちは、大胆に聖所に入ることができるのです。そして、著者は、次の22節で、次のように勧めます。

『心に血が振りかけられて、邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われ、全き信仰をもって真心から神に近づこうではありませんか』(同10:22)。

真心から、そして大胆に。この二つのことばは、どちらも受け身ではなく、自発性と喜びを伴うものであると思います。
今更言うまでもない事ですが、神様が私たちに求めておられるのは、義務的な信仰ではありません。また、私はこれだけ捧げたから、神様はこれだけ恵んでくださるだろうというような、バーター契約のような信仰でもありません。

『一人ひとり、いやいやながらでなく、強いられてでもなく、心で決めたとおりにしなさい。神は、喜んで与える人を愛してくださるのです』(Ⅱコリ9:7)

とあります。私たちは、すべてのご奉仕を、真心からお捧げする者でありたいと願います。

<結論>

『約束してくださった方は真実な方ですから、私たちは動揺しないで、しっかりと希望を告白し続けようではありませんか』(同10:23)。

著者があえてそのように書いているのは、最初に申し上げましたように、この手紙を読んでいる人たちの中に動揺している人たちがいたからだと思います。彼らが動揺していた理由は、色々あったと思いますが、その一つは、イエス様を信じて生きることの素晴らしさが、そして、今までの信仰(ユダヤ教)の違いが、分からなくなってしまったということにあったのではないでしょうか。もしかしたら彼らは、目の前の現実と今の自分の姿だけを見て、希望を失っていたのかもしれません。
今日のメッセージの最後に、皆さんと一緒に覚えたいこと。それは、私たちの信仰のゴール、救いの完成は、今ではないということです。それは、来るべき時、終末の時です。
今の時代はスピードが求められます。すぐに結果を出すことが求められます。しかし、今日のテキストの少し後の10章36節には、

『あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは、忍耐です』

とあります。この「へブル人への手紙」の強調点の一つは「忍耐」なんですね。そして、そのように、私たちが忍耐をもって歩むために、どうしても必要なことが三つあります。
その一つは、23節にあったように、しっかりと希望を告白し続けるということです。ことばには、不思議な力があります。私たちは、確かな希望を告白し続けるのです。そして、二つ目は、24節で勧められているように、愛と善行に励むことです。これは、言い換えれば、愛されている者として相応しく歩むということです。私たちは、常に自分は愛されているというところから出発しなければ、すぐにガス欠になり、行き詰まってしまいます。まずイエス様が愛してくださったから、私たちも隣人を愛したいと願うのです。そして、三つ目は、共に集まって、互いに励まし合うということです。一人一人は弱いかもしれませんが、だからこそ、この教会に集まって、互いに励まし合うことが大切なんですね。

『その日が近づいていることが分かっているのですから、ますます励もうではありませんか』(同10:25b)。

メッセージ内容のダウンロード(PDF114KB)

新聖歌

開会祈祷後:318番、
メッセージ後:364番

聖書交読

詩篇 147篇 1~11節

2019年教会行事

6月12日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2663

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