主にのみ仕えよ

メッセージ

<マタイの福音書 4章1~11節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

そこでイエスは言われた。「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい。』と書いてある。」

<マタイの福音書 4章10節>

メッセージ内容

<序論>  
・マタイは、今日のテキストの冒頭で、

『それからイエスは、悪魔の試みを受けるために、御霊に導かれて荒野に上って行かれた。』(マタイ4:1)

と記しています。神のひとり子であるイエス様も悪魔の試みを受けられたということは、私たちに勇気と希望を与えてくれます。「へブル人への手紙」4章に、次のようなみことばがあります。

『私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべての点において、私たちと同じように試みにあわれたのです。ですから私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折にかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。』(へブル4:15,16)。

弱い私たちですが、大胆に恵みの御座に近づく、そのような信仰者でありたいと切に願います。そして、もう一つ、覚えておきたいことがあります。それは、イエス様は、悪魔に導かれて荒野に上って行かれたのではないということです。イエス様は、御霊に導かれて荒野に上って行かれたんです。私たちも荒野を経験します。人間的には、絶望しか見えないような場所であったとしても、そこも御霊が導いてくださる場所である。そのことを、今朝、皆さんと共に覚えたいと思います。

<本論>
1、人はパンだけで生きるのではなく

聖書では、四十という数字には特別な意味があります。あのモーセは、神の山(シナイ山)で、四十日四十夜、断食をしました(出34:28)。イスラエルの民は、四十年間、荒野をさまよいました。エリヤは神の山に行くのに四十日の旅をしました。それらは全て、試みの時であり、神からの啓示を受ける時でもありました。イエス様は、四十日四十夜、断食をし、空腹を覚えられた時、試みる者、悪魔が近づいて来たんですね。
「空腹は最高の調味料である」ということわざがあるそうですが、この時のイエス様の空腹は、そんなレベルではなかったでしょう。イエス様は神の子でしたが、人間イエスとして、この試みをお受けになりました。私は、本当の「飢餓状態」というものを経験したことがないので、頭では想像はできても、実際、それがどれほどのものであったかということは、正直、分からないです。

『「あなたが神の子なら、これらの石がパンになるように命じなさい。」イエスは答えられた。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる』と書いてある。」』(マタイ4:3b~4)。

イエス様は決して、精神論のようなことをおっしゃったのではないと思います。私たち人間は、他の生き物と同じように、パンがなければ確実に死んでしまう存在です。イエス様は、人間にとって「飢え」というのがどんなことであるのか、よくご存知であったと思います。福音書の中に「パンと魚の奇跡」が合計6回も記されているのは、そのことの何よりの証拠と言えるのではないでしょうか。ただ、それと同時に、人間は、パンさえあればそれでよいというような存在ではない。神は人間をそのようには造られなかったということも、イエス様はよくご存知であったと思います。「創世記」1章3節に、

『神は仰せられた。「光、あれ。」すると光があった。』

とあります。神のことばには力があるのです。その力が、私たち人間を生かすのです。

2、あなたの神である主を試みてはならない

そして、二番目の誘惑ですが、悪魔も聖書のことばを引用しています(詩篇91:11,12)。さすがに、学習能力があるというか、抜け目ないですね。

『「あなたが神の子なら、下に身を投げなさい。『神はあなたのために御使いたちに命じられる。彼らはその両手にあなたをのせ、あなたの足が石に打ち当たらないようにする』と書いてあるから。」』(マタイ4:6b)。

これは、「詩篇」91篇からの引用です。

『主が あなたのために御使いたちに命じて あなたのすべての道で あなたを守られるからだ。彼らはその両手にあなたをのせ あなたの足が石に打ち当たらないようにする。』(詩91:11,12)。

悪魔は、イエス様に、あなたが神の子なら、その力を、権威を示しなさい。そして、人々を平伏させなさい、と言っているのです。それは、もっと言えば、あなたは神の子なんだから、十字架にかかって死ぬなどという、そんなバカげたことを、なんでする必要があるんだ、と言っているようにも思えます。そんなことをしなくても、神の子としての権威を人々に知らしめることはできるはずだし、人々を救うこともできるはずだと。しかし、イエス様は、そんな悪魔に、みことばによって反論されました。

『「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある。」』(マタイ4:7b)。

新約聖書の「ピリピ人への手紙」2章に、次のようなみことばがあります。初代教会で歌われていた讃美歌の一節であろうと言われています。

『キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰すためです。』(ピリピ2:6~11)。

伝道とは、このイエス様をご紹介することです。ただ、私たちが語る言葉は、また行動は、それに相応しいものとなっているでしょうか?工藤信夫先生は、「真実の福音を求めて 信仰による人間疎外 その後」という本の中で、“メサイアコンプレックス”という言葉を説明するために、同じ精神科医としての観点から、ポール・トゥルニエの次のような一文を引用しておられました。

「私が言いたいのは、人を助けたいという望みのことであるが、これは無私の極みと一見見えても、実はそれほど美しいものではない。苦しむ人を助けるということは、美しい役割を演ずることであり、力関係では優位に立つことになる。不幸な人の上に身をかがめるということは、支配する姿勢である。・・・色々な人にいつも助言を与える立場の人たちをたくさん読者もご存知と思うが、ある種の優越感を感じていることは確かである」。

私も、教団の海外宣教委員会で奉仕させてもらった時に、タイ宣教における様々な問題を聞かされて、ショックを受けたというか、考えさせられたことがありました。工藤先生も書いておられますが、宣教的野心には人間の征服欲が含まれ、攻撃性の現れという側面がそこにはあるということを、私たちは、忘れてはならないと思います。その上で、イエス様が示された権威というものを、分かり易く説明してくれている一文をご紹介したいと思います。それは、「権威」という題の、藤木正三牧師の一文です。

「権威とは一種の優しさです。人の心を暖め、やる気を起こさせ、何とかしてその心に届こうとする優しさの一念に触れた時、人は安心し、感謝し、恐縮し、更に服従せざるをえない思いを抱くでしょう。権威とは本来そういうものです。しかし、現実的には権威は一種の力です。安心に代わって緊張が、感謝に代わって畏怖が、恐縮に代わって重圧が支配している力です。寄りつき難い貫禄、辺りを払う権威を備えた力です。権威が優しさではなく、もはや力でしかないのは、現実の人間関係がすでに復元力を失っていることを物語っています」(神の風景)。

私たちは、偽物、まがい物の権威に服従する者ではなく、本物の権威に従う者でありたいですね。

3、あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい
そして、三番目の誘惑。それが、9節のみことばです。

『悪魔はまた、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての王国とその栄華を見せて、こう言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これをすべてあなたに上げよう。」』(マタイ4:8,9)。

何と挑戦的なことばか、と思わされますが、悪魔は、この世の王である自分を拝むように、自分と妥協して手を結ぶなら、この世のすべての王国と栄華とをあなたに上げよう、と迫ってきたのです。「百聞は一見に如かず」と言いますが、私たちは、目から入ってくるものに大きな影響を受けます。もし、この世のすべての王国とその栄華とを見せられたら、
それは、どれほどのものか・・・。目も眩むような金銀財宝、宮殿、豪華絢爛な衣装、等々。そのような栄華を目の当たりにすれば、きっと悪魔と妥協して、その力を借りてでも手に入れたいなと思うでしょう。しかし、イエス様の答えは、もちろん、そうではありませんでした。

<結論>

『「下がれ、サタン。『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。」』(マタイ4:10)。

『下がれ、サタン。』。このことばを、他の箇所でも聞いたことがあります。ペテロに対することばです。

『そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。』(マタイ16:21~23)。

ペテロ自身も気づいていなかったと思いますが、ペテロが思っていたことは、悪魔と妥協する道でした。それほど、私たちの、地につく思いと言いますか、この世の王の影響力というのは、強大なものだと思わされます。
その強大な悪魔の力に対抗する有効な武器は、神のことば以外にありません。

『『あなたの神である主を礼拝しなさい。主にのみ仕えなさい』と書いてある。』

と唱えつつ、私の拙い歩みを続けて行きたいと、切に願います。

メッセージ内容のダウンロード(PDF116KB)

新聖歌

開会祈祷後:242番、メッセージ後:427番

聖書交読

詩篇 110篇1~7節

2019年教会行事

1月23日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#51-2643

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