メッセージ
<詩篇 119篇1~16節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。
<詩篇 119篇105節>
メッセージ内容
<序論>
・詩篇119篇は、詩篇の中で(聖書の中でも)一番長い詩篇ですが、それだけでなく、「超絶技巧」とも言えるほどの形で作られています。それは、8節ごとに、節の最初の文字がヘブル語のアルファベット(アレフ、~タブの22文字)の順番に並び、韻を踏む形になっているのです(アクロスティック)。昨年の7月の礼拝でお話しした、詩篇111篇もそうでしたが、この119篇は176節までありますので、ちょうど22の組に分けることができます。ユダヤ人は、この詩篇を暗記し、朗唱しました。それは、9節にあるように、『若い人』への教育的な意味合いもあったと思われます。
<本論>
1、幸いなこと
私には、とてもユダヤ人のように丸暗記することは無理ですが、この詩篇全部を、声に出して読んでみました。約20分かかりました。少し疲れましたが、声に出して読んでみて、分かったこともありました。それは、この詩篇119篇全体の主題が、それこそ「みことばへの賛歌」であるということです。今日のテキストだけでなく、この詩篇に繰り返し出てくる言葉があります。それは、例えば
『みおしえ』(1節)『さとし』(2節)『戒め』(4節)『おきて』(5節)『仰せ』(6節)
などなど。それらをすべてまとめれば、「みことば」ということです。そして、1節、2節の冒頭には、『幸いなことよ』と書かれています。この言葉も、詩篇には何度も出てきます(1篇1節、2篇12節など)。それでは、聖書は、何が幸いなことだと言っているのでしょうか?私たちとっての幸いな状況や環境、或いは状態というのは、こういうことだと言っているのでしょうか?確かに、私たちは、他の人を見て、あんな環境や状態であれば、さぞかし幸せだろうなと思ってしまいます。しかし、聖書が言うところの「幸いなこと」というのは、そんな、環境や状態に依存するようなものではありません。この言葉はすべて「人々」「民」「~する者」にかかっています。つまり、人が強調されているのです。イエス様が、山上の垂訓の冒頭で語られた有名な「七福の教え」も、そうです。
『心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。悲しむ者は幸いです。~』(マタイ5:3,4)。
聖書が言っている「幸いなこと」というのは、たとえ、どのような環境や状態にあったとしても、
『主のみおしえに歩む人々。』(1節)『主のさとしを守り、心を尽くして主を求める人々。』(2節)
は幸いである、ということなんです。
2、守ること
『どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに 道を守ることです。』(詩編119:9)。
昨年の暮れに、同じ教団のある牧師とお話しする機会がありました。年齢は私よりもかなり若い方ですが、私が神学校三年生の時に彼は一年生で、同じ時期に神学校で学んだ仲間です。一昨年まで、アメリカの神学校に留学しておられ、特に、パウロについての最新の神学を学んでこられたということで、その話もお聞きしたかったのですが、それ以外にも、色々、話をして、本当に恵まれ、そして励まされました。彼は、特に、若者世代への伝道に重荷を持っておられます。そんな彼から、少し前に教えてもらったことがあります。それは、アメリカの教会で行われた、シニア(親)世代と若者(子)世代との間のギャップについての意識調査というものです。若者世代の多くは、今の教会、或いは上の世代のクリスチャンたちをどのように見ているのかということについて調査した結果です。
その第一は、偽善的である。
第二は、信者の獲得だけに焦点を当てている。
第三は、同性愛者に蔑視的態度をとる。
第四は、過保護である(退屈で、知的でなく、旧態依然として、現実からかけ離れている)。
第五は、余りにも政治的である(これは、アメリカだけか?)。
第六は、人を裁きやすい。
ということでした。もちろん、批判するのは簡単で、実践するのは困難です。ですから、今の若者世代は偽善的ではないのか、というと、決してそんなことはないと思います。しかし、そのことも分かった上で、アメリカと日本という国の違いはあっても、若い人たちが、教会や上の世代のクリスチャンに対して求めているのは、次のようなことではないかと、その牧師はまとめておられました。それは、教会が、自分の至らなさや弱さを公にできる交わりであってほしいということ。また、死後に焦点を当てて信者の獲得を目指すよりも、現在の生き方が神に変えられていくことを重視してほしいということ(言い換えれば、洗礼を受けているかどうかだけを気にして、生き方の変化を気にしないというのは、意味がないということ)。また、同性愛を含む多様な人々の良い点に目をとめ、愛と憐れみを示してほしいということ。そして、科学的知識や現実の困難とも向き合い、キリストに従ったあり方を目指してほしいということです。私は、このレポートを読んで、一番痛いところをズバッと突かれたように感じました。そして、自分の子どもたちの顔が頭に浮かんできました。もちろん、神様は、すべてのことを働かせて益としてくださる方だと信じていますが・・・。
9節には、
『どのようにして若い人は 自分の道を 清く保つことができるでしょうか。あなたのみことばのとおりに 道を守ることです。』
とありました。ただ、それは、とにかく、みことばのとおりに守りさえすれば、それでよい、ということではないと思います。14節には、次のように歌われています。
『私は あなたのさとしの道を どんな宝よりも楽しんでいます。』(同119:14)。
そして、16節。
『私は あなたのおきてを喜びとし あなたのみことばを忘れません。』(同119:16)。
自分自身はどうかな?と思わされます。この詩人のように、みことばに従うことが、自分の楽しみであり、喜びであると、心の底から歌えるだろうかと。
イエス様は、あの最後の晩餐と呼ばれている席で、弟子たちに対して、次のように言われました。
『もしわたしを愛しているなら、あなたがたはわたしの戒めをまもるはずです』(ヨハネ14:15)。
『わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛している人です。わたしを愛している人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身をその人に現します。』(同14:21)。
そして、さらに、次のようにも言われたのです。
『わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです』(同15:12)。
まず、イエス様が私たちを愛してくださった。これが、すべての戒めの出発点です。イエス様にとって、愛と戒めとは、決して相反するものではなくて、イコールなんです。だから、私たちは、楽しみ、喜んで、みことばに従い、そして、イエス様に従うのではないでしょうか。
<結論>
最後に、今日の開会聖句です。
『あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。』(詩編119:105)。
私が使っている「チェーン式聖書」の脚注には、次のような注解が書かれていました。
「神のことばは、世界の出来事を理解する視座を与え、進み行くべき道筋を明らかにする」。
あと、もう少しで「平成」が終わります。新聞やテレビなどでは、多くの知識人や評論家が、盛んに、これからの時代について解説したり、対談したりしています。「ポスト平成」「これからの日本はどこに向かうのか」などなど。人口減少や、グローバル化、IT(情報技術)の進歩で、地域や世代間の分断や格差はさらに拡がるのではないか。社会の閉塞感、停滞感は、さらに深くなってゆくのではないか、と言われています。しかし、どんな時代が来たとしても、神のみことばは、いつも変わることなく、私たちを導き、私たちに確かな視座を与え、進むべき道を指し示してくれる、と信じます。今年も、神様のなさることに期待して、お互いに励ましあいながら、歩んでゆきましょう。あなたのみことばは、わが足の灯、わが道の光です、と歌いながら。
新聖歌
開会祈祷後:20番、メッセージ後:505番
聖書交読
詩篇 105篇1~11節
2019年教会行事
1月9日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#51-2641
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