メッセージ
<マタイの福音書 1章18~25節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
すべてのことを、不平をいわずに、疑わずに行いなさい。
<ピリピ人への手紙 2章14節>
メッセージ内容
<序論>
・クリスマス、おめでとうございます!私と家内にとっては、千里教会での初めてのクリスマスになります。
<本論>
1、正しい人
ヨセフは夢を見ます。彼は、その時、聖霊によって身ごもったマリアを、ひそかに離縁しようと決心していました。「ルカの福音書」1章には、御使いガブリエルがマリアに現れ、あなたは聖霊によって身ごもると告げる場面があります。ヨセフは、そのことをマリアから聞いていたかもしれません。しかし、とても「ああ、そうなんや」と、簡単に納得できるような話ではありません。ですから、離縁しようと考えていたわけですが、恐らくヨセフは、心の奥底では迷いに迷っていたと思われます。マリアのことを信じるべきか、どうか・・・。仮に、ヨセフが信じる決心をしたとしても、家族や親戚、世間は、どのように思うだろうか。今日のテキストの
19節には、『夫のヨセフは正しい人で』
と書かれていました。ただ、彼は、単に正しいというだけの人ではなかったようです。単に正しいだけの人なら、この場合、離縁することは当時の律法に照らして、それこそ正しいことでしたので、さっさと離縁して、この問題にケリをつけていたでしょう。そして、夢なんか見なかったと思います。けれども、ヨセフは、
『マリアをさらし者にしたくなかったので、ひそかに離縁しようと思った』(マタイ1:19b)
んですね。ある本に、「夢は、人生を正しさで割り切らず、慎み恐れてなお迷うヨセフに、神様がみこころを示されたことでした。クリスマスの訪れは、この夢のお告げなのです。」と書かれていました。
この世では、しばしば、正しいか、正しくないか、ということが問題になります。自分の正当性を示すことに躍起になります。そして、それは残念ながら、信仰の世界にも見られます。教理の問題などもそうですが、「教会とは、こうあるべきだ」とか、「牧師とは、クリスチャンとは、こうあらねばならない」とか。しかし、聖書が語っているクリスマスの出来事というのは、そのような、私たち人間の考える正しさで割り切れるようなものではありませんでした。「ピリピ人への手紙」2章には、次のよう
に書かれています。
『キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、あなたがたの間でも抱きなさい。キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものすべてが膝をかがめ、すべての舌が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。』(ピリピ2:5~11)。
考えてみれば、クリスマスの出来事ほど、「正しくない」ことはありません。それは、理屈に合わない、道理に合わない、という意味ですが、神様のひとり子、イエス様が、私たちと同じ人間となって、この世界に来てくださった。それだけでも、全く道理に合わないことですが、そんなイエス様がお生まれになった時、宿屋にいる場所さえなく、家畜小屋の飼葉桶の中に寝かされた、と聖書は記しています。この世の王としてお生まれになった方、ご自分の国に来られた方が、なんで・・・。それは、正しいのか、正しくないのかと問われれば、正しくないことだったでしょう。しかし、神様の愛は、そういった私たち人間の考える正しさなんかを遥かに超えて、赤ちゃんイエス様を送ってくださり、はっきりと、目に見える形で、私たちに示されたのです。
2、インマヌエル
20節、21節には、ヨセフの夢に現れた主の使いの言葉が記されています。
『「ダビデの子ヨセフよ、恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです。マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。」』(マタイ1:20,21)。
そして、24節。
『ヨセフは眠りから覚めると主の使いが命じたとおりにし、自分の妻を迎え入れたが、子を産むまでは彼女を知ることはなかった。そして、その子の名をイエスとつけた。』(同1:24,25)。
ここには、自分の過酷な運命に深くうなずき、それを受け止めようとするヨセフの姿があります。彼には、決して確信があったわけではなく、問題が解決した、ということでもなかったでしょう。ただ、その問題に恐れおののき、頭を悩ませる、そんな自分であっても、神様はともにおられるんだ、ということを、ヨセフは夢で知ったのです。クリスマスの恵みは、問題を解決する恵みではありません。神様がともにおられるから、イエス様が私たちのところに来てくださったから、「これでいいんだ」と、その問題を引き受けさせてくれる恵みではないかと思うのです、どんな苦悩をも、ヨセフのように、「これでいいんだ」と受け止め、潔く生きる者にする、それがクリスマスの恵みではないでしょうか。
<結論>
最後に、22節、23節をご覧ください。
『このすべての出来事は、主が預言者を通して語られたことが成就するためであった。「見よ、処女が身ごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」それは、訳すと「神が私たちとともにおられる」という意味である。』(マタイ1:22,23)。
少し前に、テレビを見ていましたら、来年でポケットベルのサービスが終了するというニュースが流れていました。思えば、ポケットベルが登場して以降、私たちの社会は、常に誰かと繋がっている、また、繋がっていないと、とても不安を覚える社会になったように思えます。しかし、その一方で、どんどんと人と人との結びつきは失われ、孤独死やセルフネグレクト(自己放任、緩慢な自殺)も増えています。それは、ご高齢の方々だけでなく、若い方々もです。しかし、今日、このクリスマスに、ここにおられる皆さんとともに、改めて覚えたいことがあります。それは、イエス様がこの世界に来てくださった本当の意味は、先程も申し上げましたように、神が私たちとともにおられるということを示すためであったということです。そして、今日のヨセフもそうでしたが、たとえ、今、あなたの問題が何一つ変わらなかったとしても、そのような問題の中にも神はともにいてくださる、だから「これでいいんだ」と、すべてのことを、不平を言わずに、疑わずに行おうではありませんか。ヨセフが見た夢は、私の、そして、あなたの夢でもあるのですから。
新聖歌
開会祈祷後:75番、メッセージ後:78番
特別讃美
第1部 クリスマス礼拝~
オルガン前奏「主は生まれたもう」
フルート演奏「アヴェ・マリア」 シューベルト作曲
「アメージンググレース」 スコットランド民謡
「フルートソナタ BWV1020」 バッハ作曲
第2部 祝会~
バンド演奏 ムジカンパーニュ女子会
「我が心主をほめ」(新聖歌72番)
「迷えるこひつじ」
「おお いとしきみどり児 イエズスよ」(バッハ作曲)
「入れまつる家あらず」(新聖歌87番)
「さやかに星はきらめき」(オー・ホーリー・ナイト)
2018年教会行事
12月26日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#50-2638
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