メッセージ
<ルツ記 1章6~22節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。
<ルツ記 1章20節>
メッセージ内容
<序論>
・今週と来週は「ルツ記」からのメッセージになります。はっきりとした年代を知ることは難しいですが、冒頭の『さばきつかさが治めていたころ』という言葉から推察すると、恐らく士師の時代の初期(紀元前1150年頃)と思われます。ユダのベツレヘムに住んでいたナオミ一家は、飢饉を逃れて、外国であるモアブの野に行き、そこで暮らし始めます。モアブというのは、死海の南東側の地域で、アブラハムの甥ロトの子モアブからつけられた名前です(創世19:30~38)。
この「ルツ記」は、若い頃には全くピンとこなかったのですが、年を取るに従って、その素晴らしさに気づかされ、大好きになった書簡です。
<本論>
1、未亡人ナオミ
人生に「悲しみ」はつきものです。その代表的なものが、家族との死別でしょう。ナオミはモアブの野で夫エリメレクを亡くします。ただ、二人の息子(マフロンとキルヨン)は、それぞれ嫁をもらいます。それは、オルパとルツというモアブの女でした。4節には、
『彼らは約十年の間そこに住んだ』
とあります。この十年間は、ナオミの人生の中で、比較的、平穏な時代であったと思います。しかし、再び悲劇が彼女を襲います。二人の息子が死んでしまうのです。「逆縁」という言葉があります。元々、「仏教」から来た言葉のようですが、親にとって一番辛いことは、自分の子どもに先立たれることではないでしょうか。ナオミは、頼りにしていた夫だけでなく、二人の息子まで失い、後は自分と二人の嫁だけ、女ばかり三人が残ってしまったわけです。旧約時代のイスラエルの女性にとって(昔は、日本や他の国でも同じだったと思いますが)、子どももなく孫もないということは、社会的な死を意味していました。そのような、全く絶望的な状況の中に、本当に一筋の光と言いますか、かすかな希望の光が射し込んできます。それは、故郷ユダの飢饉が去り、繁栄しているというニュースでした。
『ナオミは嫁たちと連れ立って、モアブの野から帰ることにした。主がご自分の民を顧みて、彼らにパンを下さった、とモアブの地で聞いたからである。彼女は二人の嫁と一緒に、今まで住んでいた場所を出て、ユダの地に戻るため帰途についた。』(ル
ツ1:6~7)。
ナオミは、二人の異邦人の嫁を連れて、女ばかり三人で、自分の故郷に帰ろうと旅立つんですね。
2、あなたの民は私の民、あなたの神は私の神
しかし、その旅の途中で、ナオミは、二人の嫁に切りだします。
『ナオミは二人の嫁に言った。「あなたたちは、それぞれ自分の母の家に帰りなさい。あなたたちが、亡くなった者たちと私にしてくれたように、主があなたたちに恵みを施してくださいますように。また、主が、あなたたちがそれぞれ、新しい夫の家で安らかに暮らせるようにしてくださいますように。」そして二人に口づけしたので、彼女たちは声をあげて泣いた。』(同1:8~9)。
ナオミと二人の嫁との関係は、このことばが示すように、大変良い関係にあったようです。その後の三人のやり取りを見ても、本当に麗しいと言いますか、何か、涙が出てくるような気持ちにさせられます。この三人は、全く血のつながっていない義理の関係でしたが、姑であったナオミは、二人の嫁に本当によくしてあげたのでしょう。また、嫁たちも、その愛情に応えて、心から姑につくしてきたのだと思います。
最終的に、弟嫁のオルパはナオミの下を去る決断をします。しかし、それは決して彼女が薄情であったというわけではなく、神さまが、オルパをそのように導かれたのだと思います。そして、ルツはナオミの下に残る決断をします。
小津安二郎監督の「東京物語」という映画があります。私は、今日のこの場面を読むと、いつもその映画を思い出してしまいます。たいへん古い映画で、ロマンチックな恋愛もありませんし、派手な戦闘シーンや宇宙人も出てきません。けれども、今でも、本当に多くの人々に愛されています。それも、驚くべきことに、日本だけでなく、世界中でなんです!それは、やはり、この映画が描いていることに「普遍性」があるから。つまり、時代や民族が違っても、誰もが思い当たるような親と子の微妙な関係、或は、人生における悲しみや喜び、また、家族の絆や思いやりというものを描いているからだと思います。この「ルツ記」も、同じような理由で愛されているのかなと思います。
16節には、ルツの激しいことばが記されています。
『ルツは言った。「お母様を捨て、別れて帰るように、仕向けないでください。お母様が行かれるところに私も行き、住まれるところに私も住みます。あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたが死なれるところで私も死に、そこに葬られます。もし、死によってでも、私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。」』(同1:16~17)。
ルツも、ナオミと同じ未亡人でした。もしかしたら、モアブの実家には、彼女の帰る場所はなかったのかもしれません。
『あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です』
というのは、ルツ自身の信仰告白と言えます。そして、この時のルツにとって、自分の姑のナオミを愛することは、神様を愛すること。ナオミに従うことは、イコール神様に従うことであったんです。そこには、抽象的、観念的な愛ではなくて、具体的、実践的な愛の姿があると言えます。イエス様は、「ルカの福音書」10章で、
『「では、私の隣人とはだれですか。」』
と、ご自身を試みようとする律法の専門家に対して、「良きサマリヤ人」のたとえを語られました。そして、最後に、
『この三人の中でだれが、強盗に襲われた人の隣人になったと思いますか。」』
と逆に尋ねられました。抽象的で実践の伴わない愛が何と空しいものであるか、ということを思わされます。
「ルツ記」には、主という言葉や神という言葉は出てきますが、神様がルツにこのように語られたとか、ナオミにこのような神様の言葉があった、というようなことは一切出てきません。けれども、神様は確かに、ナオミやルツ、後にはボアズとの人と人との関係の中におられると言いますか、本当に生き生きと働いておられる。そのように強く感じることができるんです。その一点を考えても、改めて「ルツ記」というのは、本当に素晴らしい書簡だと言えると思います。
そして、ナオミとルツは、故郷のベツレヘムに帰って来ます。
<結論>
『ナオミは彼女たちに言った。「私をナオミと呼ばないで、マラと呼んでください。全能者が私を大きな苦しみにあわせたのですから。私は出て行くときは満ち足りていましたが、主は私を素手で帰されました。どうして私をナオミと呼ぶのですか。主が私を卑しくし、全能者が私を辛い目にあわせられたというのに。」』(同1:20~21)。
ナオミの心はボロボロの状態で、深い絶望の中にありました。もしかしたら、故郷ベツレヘムに帰って来て、懐かしい人たちと再会したことによって、今まで自分の中に必死に押し込めてきたものが一気に噴き出してきたのかもしれません。ただ、ナオミは、自分でも気づいていなかったと思いますが、このことばの中で、主のことを『全能者(シャッダイ)』と二度も呼んでいます。
全能の神(エール・シャッダイ)、或いは全能者。興味深いことに、このことばが、旧約聖書で一番出てくるのは、「ヨブ記」なんです(48回の内31回)。ヨブも、今日のナオミと同じように、全能者である神からひどい苦しみを受けました。けれども、この二人に共通して言えることは、最後まで神と対峙し続けたことではないでしょうか。「アモス書」に、
『わたしを求めて生きよ』
というみことばがありますが、ヨブもナオミも、最後の最後まで、神を求めて生きたのです。ナオミは、全く絶望の中にあって、何の確信もなかったかもしれませんが、私たち人間の「快い」、つまり「幸せ」の根源も、「苦しみ」の根源も、すべて全能者である神にあると告白していたのです。これも、ある意味で、ナオミの信仰告白と言えるのではないでしょうか。やがて、この告白は、現実のものとなります。それは、この世での幸不幸を超えて、全能者なる神様が、不思議な業を成してくださるのです。それは、次回のメッセージで、共に見てゆきたいと思っています。
新聖歌
開会祈祷後:81番、メッセージ後:82番
聖書交読
詩編 96篇1~13節
2018年教会行事
12月12日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#50-2636
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