バビロン川のほとり

メッセージ

<エレミヤ書 51章58~64節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

バビロン川のほとり そこに私たちは座り シオンを思い出して泣いた。

<詩編 137篇1節>

メッセージ内容

<序論>  
・「エレミヤ書」は52章までですが、実質的には51章で終わりです。最後の52章は「付録」とされています。また、「エレミヤ書」の主題は、既に皆さんと見てきましたように、バビロン捕囚についての預言です。つまり、言い換えれば、南ユダに対する裁きについての預言と言えます。しかし、46章以降には、バビロン捕囚に伴う諸外国への裁きも預言されています。

『諸国の民について、預言者エレミヤにあった主のことば』(エレミヤ46:1)。

46章はエジプト、47章はペリシテ、48章はモアブ、49章はアンモン、エドム、ダマスコなど。そして、50章と51章は、バビロン。確かに、エレミヤが預言者として召された時、神様は次のように言われました。

『そのとき主は御手を伸ばし、私の口に触れられた。主は私に言われた。「見よ、わたしは、わたしのことばをあなたの口に与えた。見なさい。わたしは今日、あなたを諸国の民と王国の上に任命する。引き抜き、引き倒し、滅ぼし、壊し、建て、また植えるために。」』(同1:9,10)。

ですから、エレミヤは、「万国の預言者」とも呼ばれています。そして、今日は特に、最後の、バビロンへの裁きに焦点を当てて、皆さんと共に見ていきたいと願っています。

<本論>
1、エホヤキム王の第四年

このような諸外国への裁きについては、実は、今日のテキストよりも少し前の時代に預言されています。それは、エレミヤの活動期間で言うとちょうど中盤ぐらいの、エホヤキム王の第四年(紀元前605年頃)です。このエホヤキム王の第四年というのは、「エレミヤ書」では重要な意味のある年なんです。
25章12節をご覧ください。

『七十年の終わりに、わたしはバビロンの王とその民を-主のことば-またカルデア人の地を、彼らの咎のゆえに罰し、これを永遠に荒れ果てた地とする。わたしは、この地の上にわたしが語ったすべてのことばを実現させる。それは、エレミヤが万国について預言したことで、この書に記されているすべての事柄である。多くの国々と大王たちは彼らを奴隷にして使い、わたしも彼らに、その行いに応じ、その手のわざに応じて報いる。』』(エレミヤ25:12~14)。

そして15節。

『まことにイスラエルの神、主は、私にこう言われた。「この憤りのぶどう酒の杯をわたしの手から取り、わたしがあなたを遣わすすべての国々に、これを飲ませよ。』(同25:15)

と言われた後、色々な国や民族の名前が告げられ、その最後の26節。

『北国のすべての王たち、近い者も遠い者も一人ひとり、地の面のすべての王国である。そして、彼らの後でバビロンの王が飲む。』(同25:26)

最後に、バビロンの王が憤りのぶどう酒の杯を飲む。つまり、裁かれるということです。これらの預言が語られたのは、先程も申し上げましたように、エホヤキム王の第四年でした。そして、この同じ年に、大きな事件がありました。前回の説教でお話しした45章、そして36章の出来事です。つまり、エホヤキム王が、書記バルクの記した巻物を暖炉で燃やしてしまうという事件です。そして、さらに、その事件の背景には、古代史に残る有名な出来事も関係していたのです(「カルケミシュの戦い」46章)。エジプトがバビロンに大敗してしまうのです。それまで、エホヤキム王を始め南ユダの高官たちは、エジプトを頼りとし、エジプトと同盟を結んでいればバビロンなんか恐るるに足らず、と思っていたのですが、その頼りとしていたエジプトが、あろうことか、バビロンに敗れ去ってしまった。そして、エルサレムは、バビロンの王ネブカドネツァルに包囲されてしまいます。そのような緊迫した国際情勢の中で、エホヤキム王や高官たちは、なお右往左往すると言いますか、それでもなお、エジプトとバビロンとを両天秤にかけて、人間的な知恵で乗り切ろうと画策するんですね。
私たちも、自分を取り巻く現実の中で、同じように右往左往してしまう時があります。人間的な知恵で何とか乗り切ろうと。けれども、一番確かなもの、求めるべきものは、やっぱり神様のみことばなんです。大切なことは、現実を通して神様のみことばを読むことではなく、神様のみことばを通して現実を見ることだと、改めて思わされます。

2、ユーフラテス川に投げ入れよ

さて、今日のテキストの51章に戻りたいと思います。今、お話ししましたように、バビロンへの裁きについては、既に預言されていましたが、エレミヤは、それらの預言を一つの書物にまとめ、セラヤ(恐らくバルクの兄弟)という人に託し、それをバビロンで読んで、62節にあるような宣言をした後、石に結び付けてユーフラテス川に沈めるようにと命じます。この出来事がいつ起こったかということは、59節に書かれています。ゼデキヤ王の治世の第四年です。これは、先程、お話しした時代よりも十数年後になります。ゼデキヤ王というのは、前回もお話ししましたように、ネブカドネツァルによって王に据えられた人物です。ですので、最初は親バビロンでした。ただ、この頃、周囲の国々がエルサレムに集まり、反バビロンの同盟を結ぼうという動きがあったのです。そんな中、ゼデキヤ王は、ネブカドネツァルに対し、自分は決して反逆するつもりはないということを弁明するため、当時、宿営の長であったセラヤを連れて、自らバビロンに赴く必要があったのだと思われます。エレミヤは、その機会を上手にとらえて、セラヤに書物を託したのでしょう。そして、エレミヤがセラヤに命じた言葉ですが、一般的には、誰に向かって読むというのではなく、セラヤ自身が読んで、数人の人たちの前で62節にあるような宣言を唱えるようにということなのかな、と考えてしまいます。しかし、服部嘉明先生の書かれた注解書に、大変興味深い解釈が載っていましたので、以下、ご紹介します。

「(恐らく)記されている預言のことばをセラヤが一人で読み終えてから、誰にも告げることなく、「主よ」と呼びかけ、神への祈りとして、神の啓示に対する応答として62節にあるように祈ることを、エレミヤの指示通りにしたのであろう。真に主権者なる神との真実と信頼あふれる人格的な交わりがないならば、ナンセンスと思われたであろう。誰にも知られないで、ただ、神のみにささげる祈りは、まことに誓願の祈りであり、本当に誠実が前提とされなければできないことである。預言が成就されるかどうかは、神ご自身の御手の中にあり、その預言をするように命じられた神ご自身に、「あなたが、永遠にバビロンを滅ぼすと言われたのですよ!」と訴えるエレミヤに、その指示に従い、誰にも知らされずにその書物を石に結び付け、ユーフラテス川の支流、または運河とも考えられる水中にそれを投げ入れるセラヤは、真実な信仰とは何であるか、人の顔色に気を奪われたり、人を恐れたりするような生き方とはマッチしない「真実」が何であるのかを、強く教えられたであろう。それは、象徴的行為以上のものであったと言い得る」(新聖書講解シリーズ旧約15 エレミヤ書・哀歌)。

自分にも、つい人の顔色を気にしたり、人の評価を恐れるような弱さがあります。このセラヤのような祈りをささげる者でありたいな、と思わされました。

<結論>

最後に、本日の開会聖句とさせていただいたのは、バビロン捕囚の出来事に関連すると思われる詩篇の一篇です。
この詩篇の作者が泣いている理由は、2節以降に記されています。

『街中の柳の木々に 私たちは竪琴を掛けた。それは、私たちを捕えて来た者たちが そこで私たちに歌を求め 私たちを苦しめる者たちが 余興に 「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。どうして私たちが異国の地で 主の歌を歌えるだろうか。』(詩137:2~4)。

バビロンに連れて行かれたユダヤ人が、その屈辱の中で一番苦しかったことは、彼らに課せられた重い労働ではありませんでした。また、その惨めな日々の生活でもありませんでした。彼らが一番苦しみ悶えたのは、バビロンの人たちが、自分たちの神(信仰)を笑いものにし、侮ったことでした。「お前たちを守る神が本当にいると言うのなら、なぜお前たちはこんなに苦しんでいるんだ。これでもまだ、お前たちは神がいると信じているのか。一体、お前たちの神はどこにいるのだ。」余興に、「シオンの歌を一つ歌え」というのは、そういうことですね。現代に生きる私たちも、これほどあからさまにではないにしても、そのように思われているのでは、と感じる時があるのではないでしょうか。「おめでたい奴やなぁ!神なんか信じて何になるんや!」「神がいるんやったら、見せてみろ!」等々。
ユダヤ人の中にも、そんな言葉に心動かされ、バビロンの人たちに媚びへつらうような人たちも出てきたと思います。もう、ユダヤ人ではなくて、バビロン人として生きて行こう、と決心した人もいたでしょう。しかし、私たちの本当の国はバビロンではありません。シオンです。そして、イエス様は次のように言われました。

『わたしの国はこの世のものではありません。』(ヨハネ18:36)。

これは全くの私の想像ですが、バビロンの川のほとりで泣いたこの詩人のすぐそば、川の底には、かつてエレミヤが書いて投げ入れるようにと命じたあの書物が沈んでいたのではないか。そう考えると、何か、素敵な気持ちになりませんか。神様の約束は、今は見ることはできなくても、私たちが気づいていなくても、必ず、私たちのすぐ近くに置かれているのです。

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新聖歌

開会祈祷後:68番、メッセージ後:70番

聖書交読

詩編 94篇1~15節

2018年教会行事

12月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#50-2635

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