メッセージ
<エレミヤ書 31章31~34節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
キリストは新しい契約の仲介者です。それは、初めの契約のときの違反から贖い出すための死が実現して、召された者たちが、約束された永遠の資産を受け継ぐためです。
<ヘブル人への手紙 9章15節>
メッセージ内容
<序論>
・先月の伝道礼拝では「完成者イエス」という題でお話ししました。イエス様は旧約聖書の律法を廃棄するためではなく、成就する(完成する)ために来てくださった方であると。イエス様が、あの十字架の上で死んで、復活してくださったことによって、私たちの罪は赦され、律法の本来の目的であった神との調和のとれた関係に生きる者としてくださった。そして、今日のメッセージでは、「仲介者イエス」と題してお話しさせていだこうと思っています。イエス様は、造り主なる神様と私たち人間との間に結ばれた新しい契約(新約)の仲介者となられたのです。
<本論>
1、イスラエルの家およびユダの家
今日のテキストは旧約聖書の「エレミヤ書」ですが、エレミヤは、南ユダ王国の最末期、ヨシヤ王の第13年から最後の王となったゼデキヤ王の時代まで、43年間に渡って預言者として働いた人です。西暦で言うと紀元前627年から583年までになります。あの「バビロン捕囚」の出来事が紀元前586年ですので、エレミヤが生きた時代は、南ユダにとって、正に亡国の時代であったと言うことができます。そして、彼は、自分の同胞たちに向かって、バビロンに降伏することこそ神様の御心であるということを説き続けた人でもありました。ですから、エレミヤは「国賊」「売国奴」と憎まれ、厳しい迫害を経験することになるのです。ただ、そうであったから、とも言えると思いますが、この「エレミヤ書」は、現代に生きる私たちにとっても、多くの示唆を与えてくれる書であると言えます。特に、今日の箇所は、「エレミヤ書」はもちろん、旧約預言全体の頂点(クライマックス)とまで言われている箇所です。それは、何故かと申しますと、本当に不思議なのですが、エレミヤの時代よりも100年以上も前に亡びてしまった北イスラエルの回復まで預言されているからです(北イスラエルは紀元前721年に、アッシリアによって亡ぼされました)。つまり、この箇所は、単にバビロン捕囚からの解放を預言したものではなく、神様が、ご自分の民であるイスラエルの完全な回復(ご自身との和解)を預言したものである、と言うことができます。
『見よ、その時代が来る──主のことば──。そのとき、わたしはイスラエルの家およびユダの家と、新しい契約を結ぶ。』(エレミヤ31:31)。
2、 新しい契約
その完全な回復(和解)のことを、ここでは『新しい契約を結ぶ』と表現しています。これはもちろん、古い契約があったということが前提になるわけですが、聖書には、最初の人アダムとの契約から始まり、ノア、アブラハム、モーセ、ダビデなどと、神様が契約を結ばれたことが記されています。ただ、ここで言われている古い契約というのは、直接的には、出エジプトの際にモーセを通して与えられた「律法(トーラー)」のことを指しています(32節)。それでは、その新しい契約というのは、どのような契約なのでしょうか?
『その契約は、わたしが彼らの先祖の手を取って、エジプトの地から導き出した日に、彼らと結んだ契約のようではない。わたしは彼らの主であったのに、彼らはわたしの契約を破った──主のことば──。これらの日の後に、わたしがイスラエルの家と結ぶ契約はこうである──主のことば──。わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。』(エレミヤ31:32,33)。
3、永遠の大祭司
モーセの時代、律法というのは石の板、あるいは羊皮紙に書き記されていました。つまり、一般の人がそんなに簡単に見れるものではなかったわけです。しかし、新しい契約は、そうではありません。神の民のただ中に置かれ、心の中に書き記される。つまり、もっと身近な、いつでも見ることのできるものとなるということです。そして、今日の開会聖句である「へブル人への手紙」には、イエス様が、その新しい契約の仲介者となられた、と書かれています。この手紙の主題は、「キリスト(論)」です。特に、5章から10章まで、永遠の大祭司となられたキリストのことが述べられています。大祭司というのは、代々、モーセの兄アロンの子孫に受け継がれ、神とイスラエルとの間の仲介者という大切な役割を果たしてきました。具体的には、年に一度、神殿の中の第二の幕屋(至聖所)に入って、民が犯した罪を贖うためのいけにえを献げるということです。ただ、毎年、献げなければならない。つまり、人間の大祭司は、ある意味、不完全ないけにえを献げていたわけです。しかし、イエス様は、全く罪のない永遠の大祭司です。そのイエス様が、ご自身を完全ないけにえとして献げてくださったことによって、もう不完全ないけにえを献げ続ける必要はなくなった。イエス様の十字架によって、私たちの罪は永遠に贖われたのです。
『しかしキリストは、すでに実現したすばらしい事柄の大祭司として来られ、人の手で造った物でない、すなわち、この被造世界の物でない、もっと偉大な、もっと完全な幕屋を通り、また、雄やぎと子牛の血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられました。雄やぎと雄牛の血や、若い雌牛の灰を汚れた人々に振りかけると、それが聖なるものとする働きをして、からだをきよいものにするのなら、まして、キリストが傷のないご自分を、とこしえの御霊によって神にお献げになったその血は、どれだけ私たちの良心をきよめて死んだ行いから離れさせ、生ける神に仕える者にするでしょうか。』(へブル9:11~14)。
<結論>
今日の開会聖句で言われている『召された者たち』というのは、もちろん、キリストを救い主として信じる者たちのことです。私たちクリスチャンは、新しい契約の民として、約束された永遠の資産を受け継ぐ者とされたのです。
ただ、私は、この『新しい契約』の「契約」という言葉を聞くと、どうしても、あるイメージと言いますか、「権利・義務」という言葉が、頭の中に浮かんできてしまうんです。
私は、牧師になる前、生命保険会社で働いていました。生命保険というのは、この世における契約の代表的なものです。「約款」というものの中に、保険会社と契約者、それぞれの権利・義務が書かれています(電気・ガス・テレビ・鉄道なども、そうですが)。ただ、聖書が言うところの契約。特に、この『新しい契約』というのは、そのようなものとは全く違います。もし、聖書の言う『新しい契約』が、この世の契約と同じように、お互いの、つまり神様と人間との権利・義務を規定するようなものであったら、どうでしょうか。私たちの中で誰一人として救われる者はいなかったでしょう。これは、『契約』と呼ばれてはいますが、その実体は、神様からの一方的な恵み・恩寵であると言えます。それが「福音(良い知らせ)」なのです。それなのに、何か「契約」と言われると、「契約は互いの権利義務。私たち人間が自分の義務を果たすならば、神様もご自身の義務を果たしてくださる。もっと祈り、もっと献げ、もっと奉仕をしなければ、神様は祝福してくださらないのでは」と考えてしまうんですね。それは、福音書に出てくるパリサイ人と同じ考え方ではないでしょうか。もし、私たちが、信仰というものを、そのように理解しているとしたら、それは、『新しい契約』というものを全く理解していないということになると思います。「エレミヤ書」31章3節には、次のようなみことばがあります。
『主は遠くから私に現れた。「永遠の愛をもって、わたしはあなたを愛した。それゆえ、わたしはあなたに真実の愛を尽くし続けた。』(エレミヤ31:3)。
神様の永遠の愛が、人となって私たちの世界に来てくださったのがイエス様です。このイエス様のことを、あなたにご紹介したいと、切に願っています。
特別演奏
ムジカンパーニュ
・STILL(静まって知れ)
・まよえるこひつじ
・汚れと争いは
・球根の中には
・月の光
新聖歌
メッセージ後:145番
聖書交読
詩編 71篇1~8節
2018年教会行事
11月7日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#50-2631
One comment to this article
mb-senri_web
on 2018年11月4日 at 2:14 PM -
今日の礼拝は、夏にお怪我をされてリハビリに努めて来られたT姉が娘さんと共に、駅でタクシーが来なかった事から上り坂を歩いて来てくださいました。また、遠方からI兄のご夫妻も久しぶりにお越しくださいました。その他にも恵みに溢れた礼拝となりました!感謝です。