メッセージ
<ルカの福音書 17章11~19節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
すると主は言われた。「もしあなたがたに、からし種ほどの信仰があれば、この桑の木に『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。
<ルカの福音書 17章6節>
メッセージ内容
<序論>
・聖書という書物はたとえや隠喩(メタファー)に満ちていると言えます。特に、イエス様のお話はそうです。今日の「からし種ほどの信仰」もその一つですが、からし種には、もう一つ、有名なたとえがあります。
『神の国は何に似ているでしょうか。何にたとえたらよいでしょうか。それはからし種に似ています。ある人がそれを取って自分の庭に蒔くと、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。』(ルカ13:18,19)。
マタイやマルコにもありますが、小さな種に宿るいのちの「神秘さ」「不思議さ」というものを感じさせられます。また、成長させてくださるのは神様であるということも思わされます。そして、このたとえは、イエス様の復活・召天の後、現実のものとなります。初めは小さなからし種のようであった福音、神の国が、生長して木のようになり、ローマ帝国全体、さらに地の果てにまでに拡がってゆくのです。
今日の開会聖句にも、同じ「からし種」が出てきますが、そこには、また違った意味が含まれているようです。今日は、この「からし種ほどの信仰」ということについて、皆さんと一緒に見て行きたいと願っています。
<本論>
1、 ツァラアトに冒された十人の人
イエス様は、
『私たちの信仰を増し加えてください。』(ルカ17:5)
という使徒たちの願いに対して、「もしあなたがたにからし種ほどの信仰があれば、この桑の木に
『根元から抜かれて、海の中に植われ』と言うなら、あなたがたに従います。」(同17:6)
と答えられました。そして、その後で、あるたとえを話されました。それは、主人に命じられたことをすべて行ったしもべに、
『私たちは取るに足りないしもべです。なすべきことをしただけです』と言いなさい。」(ルカ17:10)
というたとえです。このたとえは、「からし種ほどの信仰」と、どんな関係があるのでしょうか?これは私の解釈ですが、イエス様は、信仰を増し加えてくださいと願う使徒たちに対して、信仰的な高慢に注意しなさいとおっしゃりたかったのではないでしょうか。信仰的な高慢の典型例は、福音書に出てくるパリサイ人です。4節で、イエス様は、一日に七回罪を犯した兄弟でも、悔い改めますと言うなら、七回赦しなさいと命じておられます。しかし、パリサイ人は、七回赦すどころか、七回裁くような人たちでした。それは、彼らの多くが、自分の信仰は正しい、自分は立派な信仰者だと思い込んでいたからです。使徒たちは、自分にも、信仰が増し加わえられたなら、立派な信仰者になれる、と勘違いしていたのではないでしょうか。
そして、その後に、今日のテキストにさせていただいた話が載っています。これは、ルカにだけ出てくる話なのですが、実際に、この順番通りに、時系列的に起こった出来事なのかどうかはわかりません。後でルカが編集した可能性も十分にありますが、やっぱり、そこには何か意味があると言いますか、イエス様の「からし種ほどの信仰」ということばと関連があるように思うのです。
『彼らは遠く離れた所に立ち、声を張り上げて、「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」と言った』(ルカ17:12,13)。
当時のイスラエルには、ツァラアトに冒された者は、「汚れている」と言いながら、一般の人々の群れから間隔を置いて歩かなければならないという律法がありました(レビ13:45,46、民数5:2)。ですから、彼らは、当時、多くの群衆に取り巻かれていたであろうイエス様に近づくことができなかった。それで、遠く離れた所から大声で叫ぶしかなかったんですね。
イエス様も、そんな彼らに大声で答えられたのだと思います。
『「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」』(ルカ17:14)。
この場面で、イエスさまが言われたのは、このことばだけなんです。何か、不思議に感じます。『「イエス様、先生、私たちをあわれんでください」』と叫んでいる彼らに対して、これだけ?『わたしの心だ、きよくなれ』とか、『あなたの病は癒された』とか、言ってくださってもよかったのではないかな、と思ってしまいますけれども、これだけだったんです。しかし、彼らにとっては、この一言で十分でした。十人のツァラアトに冒された人たちは、祭司の所に行く途中できよめられた、と記されています。旧約のⅡ列王記5章に、アラムの王の将軍であったナアマンがツァラアトから癒される話があります。ナアマン将軍は、預言者エリシャが「ヨルダン川へ行って七回身を洗え」と勧めたことに対して、「あほらしい。そんなことで癒されるはずがないやろ。この俺を誰やと思ってるんや!」(意訳)と怒って、最初、従おうとしませんでした(ただ、最終的には従いましたが)。ナアマンは、偉大な将軍でしたので、彼のプライドが邪魔をしたのだと思います。この十人は、そんなナアマンよりも素直な信仰を持っていたと言えるでしょう。しかし、いやされた後の反応は、皆が同じではありませんでした。
2、 九人はどこにいるのか
『そのうちの一人は、自分が癒されたことが分かると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。
すると、イエスは言われた。「十人きよめられたのではなかったか。九人はどこにいるのか。この他国人のほかに、神をあがめるために戻って来た者はいなかったのか。」』(ルカ17:15~18)。
私は、この箇所を読んで、次のように思いました。「イエス様も変なことを言わはるなぁ。「九人はどこにいるのか」って、イエス様、あなたがお命じになったんじゃないですか。「行って、自分のからだを祭司に見せなさい。」って。だから、その九人は、きよめられた自分のからだを祭司に見せに行ったんでしょ。なんで、そんなことを言わはるんですか?」。そんな風に思いました。皆さんは、いかがでしょうか?
ただ、私は、改めてこの話を読み返してみて、次のようにも言えるのかなと思わされたんです。それは、イエス様のもとに戻って来なかった九人の信仰は、ツァラアトが癒されたことだけで満足する信仰にすぎなかったのかなと。彼らは、信仰というものを、ただこの世での損得、病が癒されるか癒されないか、ということでしか、考えていなかった。つまり、彼らの信仰は、究極的には、「ご利益信仰」であったということですね。それに対して、イエス様のもとに感謝しに戻って来たサマリア人は、そうせずにはいられなかったのです。彼も、イエス様に言われたことを、覚えてはいたと思うのです。しかし、彼は、そのことよりもまず、イエス様にお会いして、自分の真心からの感謝の気持ちを表さずにはいられなかった。確かに、イエス様のみことばに従うこと、聖書のみことばに従うことは大切なことです。ただ、従ったか、従わなかったかということ以上に、大切なことがあるように思うのです。それは、私たちの心の中の動機です。みことばに従うということが、時に、受け身の信仰になってはいないでしょうか。このサマリア人のように、喜んで自発的にということではなくて、ただ言われているから従う。日曜日には礼拝厳守と言われているから礼拝には出席する。教会では奉仕が必要と言われているから奉仕をする。もし、そこに、何の喜びも感動も見出せないとしたら、こんな悲しいことはありません。からし種ほどの信仰とは、このサマリア人が示したような、喜びと感謝の応答を伴うものだと思います。
<結論>
元ノートルダム清心学園理事長でカトリックの修道女の渡辺和子さんという方がおられます。もう、天に召されましたが、彼女は、幼い頃、あの「二・二六事件」に遭遇し、父である渡辺錠太郎陸軍大将が殺される様子を、わずか1メートルほどの距離から目の当たりにしたそうです。その渡辺和子さんが、この「からし種ほどの信仰」ということについて、興味深い一文を残しておられます。それは、「からし種ほどの信仰」とは、神さまに請求書を出す信仰ではなく、たとえ病の中にあっても
「わたしの恵みはあなたに十分である」(Ⅱコリント12:9)
と受けとめて、神さまに領収証を出す信仰のことだ、という一文です。
私たちは、どうでしょうか?自分自身の祈りを振り返ってみて、神さまに請求書ばかりを出しているように思えます。イエス様は、「からし種ほどの信仰があれば」と弟子たちに言われました。今週も、このみことばを心に留めて、歩んで行きたいと願います。
新聖歌
開会祈祷後:118番、メッセージ後:252番
聖書交読
詩編 62篇1~12節
2018年教会行事
10月3日(水)オリーブ・いきいき百歳体操
#50-2626
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