隠れたところで見ておられるあなたの父

メッセージ

<ローマ人への手紙 2章1~16節>
牧師:砂山 智 師

開会聖句

あなたの施しが、隠れたところにあるようにするためです。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。

<マタイの福音書 6章4節>

メッセージ内容

<序論>  
・パウロがこの手紙を書いたのは、第三次伝道旅行の際、「使徒の働き」で言うと20章の冒頭の頃だと推測されています(紀元58年頃・皇帝ネロの時代)。パウロは、この時点ではまだ一度もローマを訪れたことはありませんでした。それが、この手紙に、他の手紙とは異なる一つの特徴を与えています。それは、宛先の教会の具体的な問題について、余り触れられていないということです。ただ、この手紙が執筆された背景には、当時の教会で顕在化してきたある共通の問題があったと、私は思っています。それはユダヤ人と異邦人との問題です。当時の教会内で、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンとの対立が激しくなりつつあった。そして、その問題とも絡んで、所謂「信仰義認」ということが論じられているように、私は考えています。

『福音には神の義が啓示されていて、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです』(ローマ1:17)。

このみことばは、この手紙全体の主題とも言え、私たちプロテスタント教会誕生の原点となったことばです。
パウロにとって、最早、ユダヤ人かギリシア人かというような民族の違いは、何の意味も持っていませんでした。そうではなくて、私たちに、神の義(神との正しい関係)を明らかにしてくれた福音。その福音を信じる信仰のみが大切であったのです。

<本論>
1、 特権意識

1節にあるみことばは、一般化して語られているように見えますが、パウロの念頭には、ユダヤ人のことがあったと思います。ユダヤ人は神に選ばれた特別な民族でした。彼らは、旧約の時代に、多くの反逆や罪を繰り返してきました。また、その結果として、多くの苦難も経験しましたが、神さまは彼らを見捨てず、ご自分の民として導き、限りない恩寵を注いでこられました。ただ、結果的に、そのことが、彼らに勘違いと言うか、誤った選民意識(特権意識)を植えつけてしまったのかもしれません。1~5節までのみことばは、「福音書」に出てくるパリサイ人や律法学者たちの姿を思い起こさせます。パウロ自身も、かつてはパリサイ人でした。そして、パウロもそうでしたが、彼らの大部分は、人一倍、熱心で、神さまの前に正しい生き方とは何かということを真剣に追い求める人たちでした。ただ、その熱心が、時として大きな落とし穴になってしまうのです。自分は正しいと言って、他の人をさばいてしまうという・・・。

最近は、ほとんど見かけなくなりましたが、私が就職した頃、よく東京の新宿などの繁華街で、プラカードを持って、大きな拡声器を使って伝道(?)している人たちの姿を見ました。その内容は、神さまのさばきを強調するようなものであったと思います。「あなたは罪人です」「このままでは、神さまにさばかれます」「神さまのさばきは永遠の滅びです」「さばかれないために、イエスさまの十字架を信じましょう」等々。道行く人々に、プラカードを掲げながら、大音声でそのようなことを繰り返し訴えかけていました。私は、その頃、すでにクリスチャンでしたが、最初は、「すごいなぁ。勇気があるなぁ。熱心だなぁ」というように思って見ていました。しかし、だんだんと、怒りのようなものが心の中に湧いてきたんです。とても不快に感じたんです。それは、彼らが、自分自身を神と同じように、つまり、自分をさばく側に置いて、他の人々を見下している(さばいている)ように思えたからです。そのような伝道を通して信仰に導かれた人がいるのかどうか、私は知りませんが、私たちの信仰の原点は、さばきを恐れる心ではなく、イエスさまによって示された神さまの愛への応答であるべきだと思います。

また、私たちには、人の目や評価というものを、とても気にするところがあると思います。もし、私たちが、人の目を気にするのと同じように、否、それ以上に、隠れたところで見ておられる神さまの目を気にするならば、私たちは、謙虚にならざるを得ないでしょう。イエスさまは、姦淫の現場で捕えられた女をさばこうとする人たちに対して、

『あなたがたの中で罪のない者が、まずこの人に石を投げなさい』

と言われました(ヨハネ8:7)。隠れたところで見ておられる神の前で、私には罪はないと言える人など、一人もいないと思います。

2、 救いと報い
そして、今、お話ししたことも踏まえた上で、6節をご覧ください。

『神は、一人ひとり、その人の行いに応じて報いられます。』(ローマ2:6)。

一瞬、ハッとさせられます。

『行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。』(エペソ2:9)

と書いてあるのに、どういうこと?と思われる方もいらっしゃるかもしれません。実は、お恥ずかしい話ですが、私も、神学校で学ぶまでは、全く考えたことさえありませんでした。ちなみに、ローマカトリック教会は、このみことばを、プロテスタント教会の「信仰義認」への反論の根拠としているそうですが、「日々のみことば」の中で、武庫川教会の武田師は、次のように書いておられました。

「神さまは、人間の行いに応じて報いられます。ここで人は行いによって救われると言われているわけではありません。信仰によって救われた私たちは、行いに応じて報いられると言われているのです。もちろんその報いの基準は、私たちの想定を超えた神の基準です」。

武田師も言われているように、この「報い」は神の基準であり、具体的にどのようなものであるのかは私には分かりません。ただ、私は、このみことばを読んで、「山上の垂訓」の最後にあるイエスさまのことばを思い出しました。

『ですから、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家を襲っても、家は倒れませんでした。岩の上に土台が据えられていただからです。また、わたしのこれらのことばを聞いて、それを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人にたとえることができます。雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもその倒れ方はひどいものでした。』(マタイ7:24~27)。

イエスさまは、聞いて信じるということは、聞いて終わりということではない。聞いてそれを行うことだと言われたのです。「信じる」ということは、常に私たちに行動の変革を求めるのだということを思わされます。

<結論>
そして、私たちに、そのような行動の変革を起こさせるためにも、隠れたところで見ておられる父がおられるということを忘れないことが、本当に大切だと思わされています。
7~15節で、パウロは、ユダヤ人であろうが異邦人であろうが、旧約の律法を知っていようが知っていまいが、何の違いもない、神にはえこひいきなんかはないと言っていますが、えこひいきがないということは、すなわち、神さまは、私たち人間の民族や表面的な行いなどで騙されるような方ではないということだと思います。

『私の福音によれば、神のさばきは、神がキリスト・イエスによって、人々の隠された事柄をさばかれるその日に行われるのです。』(ローマ2:16)。

自分の内にも隠された事柄がいっぱいあります。人間の目はごまかせても、神さまの目をごまかすことはできません。そして、それをさばくのは、神さまの専権事項です。

『愛する者たち、自分で復讐してはいけません。神の怒りにゆだねなさい。こう書かれているからです。「復讐はわたしのもの。わたしが報復する。」主はそう言われます。』(同12:19)。

私たちにゆだねられていること。それは、他の人をさばくことではありません。私たちにゆだねられていること。それは、イエスさまが私たちの罪のために十字架で死んでくださったこと、そして、三日目によみがえられたということです。この福音を、これからもお伝えしてゆきたいと、切に願います。

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新聖歌

メッセージ後:272番

特別讃美

青木 美紀姉(ギター弾き語り)
「蜂と神さま」「私と小鳥とすずと」
「球根の中には」「ふぇりしだーぢ」
「コルコバード」「いつくしみ深き」

聖書交読

詩編 54篇1~7節

2018年教会行事

9月5日(水)オリーブ・いきいき百歳体操

#50-2622

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