メッセージ
<列王記第二 19章14~19節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
ラブ・シャケは彼らに言った。「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、お前は何に拠り頼んでいるのか。
<列王記第二 18章19節>
メッセージ内容
<序論>
・今日のメッセージの主人公は南ユダの王ヒゼキヤです。彼については、「Ⅱ列王記」18章の前半で、素晴らしい王であったことが紹介されています。また、「Ⅱ歴代誌」30章には、あのソロモン王以来、途絶えていた「過越の祭り」を復活させた王としても記録されています。しかし、そんなヒゼキヤ王にも試練が訪れます。それは、紀元前722年の北イスラエルの滅亡です(Ⅱ列王18:9~12)。南ユダを取り巻く状況は風雲急を告げます。北イスラエルの滅亡から7年後、アッシリアの王センナケリブは南ユダに攻め寄せます(同18:13~16)。ヒゼキヤは、この時、アッシリアの圧力に屈して、ソロモンの神殿や自分の王宮の宝物蔵にあった金銀財宝をみな、センナケリブに渡したと記されています。ただ、残念ながら、そのような一時しのぎの対応は長続きしませんでした。その14年後(紀元前701年)、アッシリアは再び、南ユダを滅ぼそうとして攻めてくるのです。
<本論>
1、ラブ・シャケの脅し
『アッシリアの王は、タルタン、ラブ・サリス、およびラブ・シャケを、大軍とともにラキシュからエルサレムのヒゼキヤ王のところへ送った。彼らはエルサレムに上って来た。彼らは上って来ると、布さらしの野への大路にある、上の池の水道のそばに立った。』(Ⅱ列王18:17)。
この、タルタン、ラブ・サリス、ラブ・シャケというのは、個人の名前ではなく、アッシリアの王の大使たちの役職名であったとのことですが、ラブ・シャケは、居並ぶ南ユダの重臣たちを前にして、次のように言い放ちます。
『「ヒゼキヤに伝えよ。大王、アッシリアの王がこう言っておられる。『いったい、おまえは何に拠り頼んでいるのか。』(Ⅱ列王18:19b)。
日本でも、戦国時代には多くの戦がありました。城攻め、野戦、兵糧攻め。様々な戦法がありましたが、その中で、最も評価されたのは、戦わずして勝つこと。つまり、調略という戦法でした。そして、今日の物語で、ラブ・シャケが使った戦法も、言わば調略でした。彼は、巧みな言葉で、南ユダの人々の心に動揺を起こさせ、国を内部から崩壊させようと考えたのです。
18章26節を読めば、そのことがよくわかります。
『ヒルキヤの子エルヤキムとシェブナとヨアフは、ラブ・シャケに言った。「どうか、しもべたちにはアラム語で話してください。われわれはアラム語が分かりますから。城壁の上にいる民が聞いているところでは、われわれにユダのことばで話さないでください。』(同18:26)。
ラブ・シャケは、ヒゼキヤ王の重臣たちにではなく、むしろ、近くにいた一般の民衆に向かって、彼らが分かるように、あえてユダのことば(ヘブル語)で話をしたのです。それで、重臣たちは、たまらくなって、ユダのことばではなくアラム語(当時の公用語)で話してくれるようにと願います。けれども、もちろんラブ・シャケは、そんな願いを聞き入れるはずがありません。なぜなら、彼の目的は、南ユダの民衆の心をヒゼキヤ王から離反させることにあったのですから。ラブ・シャケは、さらに、ヘブル語で話し続けます。
おまけに、ラブ・シャケのこれらのことばは、非常に説得力のあるものでした。彼は有能なスポークスマンでした。彼が話すことは、決してはったりではなく、客観的な事実の上に立った、現実的で、論理的とも言えるような内容であったのです。そのことは、ヒゼキヤ王も認めています(同19:17)。
『民は黙って、彼に一言も答えなかった。「彼に答えるな」というのが、王の命令だったからである』(同18:36)。
ただ、王の命令がなくても、この時、ラブ・シャケのことばに反論できる人は、恐らく、一人もいなかったでしょう。
2、イザヤの預言
『ヒゼキヤ王はこれを聞くと衣を引き裂き、粗布を身にまとって主の宮に入った。』(同19:1)。
そして、ヒゼキヤ王は、すぐに家来たちを預言者イザヤのところに遣わすのです。イザヤは、南ユダ王国後期に活躍した大預言者で、バビロン捕囚、そして捕囚からの解放、さらに、メシア(イエス・キリスト)預言まで残した預言者として知られています。イザヤは、ヒゼキヤ王の家来たちに、次のように答えます。
『「あなたがたの主君にこう言いなさい。『主はこう言われる。あなたが聞いたあのことば、アッシリアの王の若い者たちがわたしをののしった、あのことばを恐れるな。今、わたしは彼のうちに霊を置く。彼は、あるうわさを聞いて、自分の国に引き揚げる。わたしはその国で彼を剣で倒す。』』(同19:6b~7)。
最終的には、このイザヤの預言通りになるのですが、ただ、アッシリアの王センナケリブは、そんなイザヤの預言をあざ笑うかのごとくに、最後通牒とも言うべき手紙を送りつけてくるのです(同19:10~13)。
<結論>
実は、「Ⅱ列王記」には記されていないのですが、このような危機が迫る中で、ヒゼキヤ王は、極めて現実的で効果的な対抗策を実行しています。「Ⅱ歴代誌」32章30節に記されているように、エルサレムの人々にとって命綱とも言える水を確保するために水路(トンネル)を掘っているのです。「人事を尽くして天命を待つ」という有名なことわざがありますが、この時のヒゼキヤも、そうでした。
そして、自分にできる精一杯のことをした後は、すべてのことを神さまにお任せして、祈らなければなりません。今日の聖書箇所は、そのことを私たちに示してくれていると思います。
私たちの内、誰一人として、自分から試練に遭いたいと願う者はいないでしょう。しかし、避けようとしても、避けようとしても、試練が襲い掛かってくる時もあります。そんな時、私たちは、嫌でも「あなたが頼みとする者は何か?」という問いに向き合わされるのではないでしょうか。このラブ・シャケからのことばは、私たち一人一人に、信仰者としての「覚悟」を迫ることばであるように思えます。そして、今日のヒゼキヤ王の祈りの最後は、
『私たちの神、主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください。そうすれば、地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう』(同19:19)
ということばで結ばれています。
『地のすべての王国は、主よ、あなただけが神であることを知るでしょう』。
今朝、何よりも、私自身が、主よ、あなただけが神であることを知ることができますように、と切に願います。
新聖歌
開会祈祷後:27番、メッセージ後:195番
聖書交読
詩編 42篇1~11節
2018年教会行事
今週の集会はお休みです。
#50-2619
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