メッセージ
<列王記第二 3章13~27節>
牧師:砂山 智 師
開会聖句
これは主の目には小さなことです。
主はモアブをあなたがたの手に渡されます。
<列王記第二 3章18節>
メッセージ内容
<序論>
・「Ⅱ列王記」は、
『アハブの死後、モアブがイスラエルに背いた』(Ⅱ列1:1)
ということばで始まっています。アハブというのは北イスラエルの王で、モアブというのはアブラハムの甥ロトの子孫ですが、アハブ王の時代には、北イスラエルの属国になっていました。そして、アハブ王の死後、モアブは反乱(独立戦争)を起こすのです。その頃、北イスラエルの王はアハブの子ヨラムでした。彼は、モアブの反乱に対抗するため、南ユダの王ヨシャファテに協力を求めます。ヨシャファテはヨラムの求めに応じ、エドムの王と共に三人で連合してモアブと戦おうとするのです。しかし、七日間も回り道をしたせいで、水がなくなってしまいます。水がないということは、すなわち、死、敗北を意味します。そこで、彼らは、預言者エリシャに会いにやって来るのです。
<本論>
1、 何の関わりがあるでしょうか
「木で鼻を括ったような」という表現がありますが、今日のテキスト冒頭の13節のエリシャのことばは、まさにそのようなものでした。
『「私とあなたの間に何の関わりがあるでしょうか。あなたの父の預言者たちや、母の預言者たちのところに行かれたらよいでしょう。」』(同3:13a)。
「おいおい、困ったときの神頼みかよ。お前のことなんか、わしゃ知らん」と言っているように聞こえます。そんなエリシャに、ヨラムは次のように言います。
『いや、モアブの手に渡すために、この三人の王を呼び集めたのは、主だ』(同3:13b)。
しかし、エリシャは、ヨラムに向かって、次のように言い放つのです。
『私が仕えている万軍の主は生きておられます。もし私がユダの王ヨシャファテの顔を立てるのでなければ、私は決してあなたに目も留めず、あなたに会うこともしなかったでしょう。』(同3:14)。
エリシャは、相当、ヨラムのことを嫌っていたようです。その理由は、北イスラエルの偶像崇拝にありました。何しろ、師匠のエリヤの頃からの因縁ですので、エリシャがこのように言うのも無理はないと思います。また、エリシャ自身の性格もあったのではないでしょうか。ある注解には、「(彼は)気難しくて激しやすく、無慈悲で残酷とも言える人物であった」と書かれていました。確かに、この前の2章の最後に記されている話を読むと、そのように見えてしまうのですが・・・。
神さまは、色々なタイプの人間を用いられるのだと、改めて思わされます。そして、エリシャは、旧約に登場する預言者の中で、最も多くの奇跡を行った預言者と言われています。本当に不思議です。
さて、エリシャは、この三人の王たちに対して、次のように答えます。
『「主はこう言われます。『この涸れた谷にはたくさんの水がたまる。』主がこう言われるからです。『風を見ず、大雨を見なくても、この涸れた谷には水があふれる。あなたがたも、あなたがたの家畜も、動物もこれを飲む。』これは主の目には小さなことです。主はモアブをあなたがたの手に渡されます。あなたがたは、城壁のある町々、立派な町々をことごとく打ち破り、すべての良い木を切り倒し、すべての水の源をふさぎ、すべての良い畑を石をもって荒らすでしょう。」』(同3:16~19)
2、 主の目には小さなこと
パレスチナの荒野には、「ワディ」と呼ばれる涸れた谷が多くあります。「ブリタニカ国際大百科事典」によると、「アラビア語で河谷(かこく)を意味し、サハラやアラビアの乾燥地域の間欠河谷をいう。通常は流水がなく涸谷となっているが、豪雨があると急激に出水する。河床は比較的平坦なので、交通路として利用されることが多い。また地下水面に近いので集落が発達することも多い」と説明されていました。
エリシャが、今、お話ししたような自然現象を知っていたのかどうかは分かりませんが、20節を見ると、
『水がエドムの方から流れて来て、この地は水で満たされた』
とありますので、恐らく、上流のエドムで豪雨があり、この涸れた谷にも水が流れて来たということではないでしょうか。
先日も、西日本の広い地域で豪雨による甚大な被害が出ました。このような大災害のたびに思わされることですが、自然の力の前では、私たち人間は本当に無力な存在であると思わされます。ですから、この奇跡を見た三人の王たちは、心の底から驚いたと思います。しかし、エリシャは、その三人に向かって、次のように言ったのです。
『これは主の目には小さなことです』(同3:18a)。
<結論>
新約聖書の「マタイの福音書」12章に、イエスさまと、律法学者、パリサイ人らが、しるし(奇跡)について論争している場面が出てきます。イエスさまは、彼らから
『先生、あなたからしるしを見せていただきたい』(マタイ12:38)
と求められたとき、
『悪い姦淫の時代はしるしを求めますが、しるしは与えられません』(同12:39)
と答えられました。そして、その後、ヨナの奇跡の話をされ、
『しかし、見なさい。ここにヨナにまさるものがあります』
と言われました(同12:41)。
この箇所は、イエスさまご自身が、十字架と復活について初めて言及された箇所ですが、イエスさまはここで、ご自分がここにいることにまさる奇跡はない、と言われたのではないでしょうか。神のひとり子が人となってこの世に降り、僕の姿で人に仕え、私たち罪人のために十字架で殺され、三日目によみがえり、天に昇り、全能の神の右に座したまわれた。考えてみれば、これ以上のしるし、奇跡というものはないでしょう。にもかかわらず、私たちは、何か不思議なことに弱い面があるように思えます。例えば、病気からの奇跡的な癒しや、この世で成功することなど。それが人間的に見て、どれほどに驚くべきことであったとしても、主の目には小さなことだと、聖書は言っています。そのようなことは、イエスさまの十字架と復活の前には、取るに足らない事柄なのだと。このことを忘れずに、今週も復活の主イエスさまを仰ぎ見ながら歩みたいものです。
新聖歌
開会祈祷後:334番、メッセージ後:505番
聖書交読
詩篇 140篇1~13節
2018年教会行事
7月18日(水) オリーブいきいき百歳体操(10時~11時)
#50-2615
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